ダジャレから生まれた三浦大知の「ALOS」の神秘性
前置きの前置き
紅白のような音楽番組に出演するようなアーティストが歌う”ポップス”って、わりと楽曲の型って決まっている。
というのも、当然ながら紅白に出る規模のアーティストの場合、たくさんの人に音楽を届けることを想定している。
たくさんの人に刺さる音楽を作ろうとすると、どうしてもある程度は定番の型に収めるような楽曲になってしまうわけだ。ごく一部の人しか刺さらない音楽になってしまうのは、ちょっとまずいからだ。
サビ=歌の中で一番キャッチーな部分という方式も、上記でいうところの型のひとつだと思うし、流行りの楽曲には通底するコード進行も存在している。
最近の歌はイントロを省きがちというのも、この型のひとつだと思うし、意図的にやっているものから気がついたら染み付いてしまっているものも含め、たくさんの人に聴いてもらう想定の楽曲は、このような型がいくつも存在しているわけだ。
ただ・・・・。
紅白といったたくさんの人が視聴する音楽番組にも出演しており、楽曲には何らかのタイアップが付いているにもかかわらず、ゴーイングマイウェイよろしく、己の道を突き進み、既存の型をぶち壊していく、ニュータイプ的なアーティストも存在している。
Daichi Miura(ここはあえて英語なまりに読んでみてほしい)もまた、そういうアーティストの一人だと思う。
前置き
いやね、マジで三浦大知、凄いと思うの。
「ALOS」を聴いて、改めてそんなことを思った。
この曲、作詞は三浦大知で、作曲は三浦大知とUTAの共作(だよね?)なんだけど、手触りが完全に三浦大知の歌にしかないソレ、なのである。
三浦大知の歌をよく聴いている人からすれば、実家にあるこたつみかんのような安心感があって、でも新しさも感じる不思議な手触りのソレ。
このソレ、を具現化するのはけっこうムズイ。
でも、ほんとに三浦大知のこういうテンポ感の歌って、三浦大知の楽曲にしかない音の運びになっているのだ。
たとえば、最近のダンスチューンって、音の感じとか楽曲のテンポ感で「あ、これ、きっとあわよくばTikTokでバズりたいと思って楽曲作っているな・・・」というニオイを感じるものが多い。
でも、三浦大知が紡ぐ”踊ることのできる歌”ってそういう作為性がないのだ。
あるいは、言葉を聴かせる類の歌だとしても、歌詞を切り取ってエモくなりやすい恋愛(失恋)ソングが流行ることが多く、これまたTiktokで使われやすいようにアレンジしているニオイを感じるものが多い。
でも、三浦大知が紡ぐ”言葉が際立つ優しい歌”って、そういう作為性がないのだ。(恋愛ソングであるかないかとかの問題ではなく、楽曲全体の装いとして、だ)
いや、もしかすると、本人に質問したら「あわよくばTiktokでバズらせる気マンマンで作ったんだけどな・・・」と言われるかもしれない。
が、仮にそうだとしても、やっぱり音の運びがそういった歌とは一味も二味も違うよなーというのは、自分の実感としてある。
そういった蓄積が、三浦大知の歌にしかない手触りを感じさせてくれるのである。
実際、音楽番組で三浦大知が歌を歌う際も、思うのだ。
三浦大知の歌っぽい歌を歌っているアーティストって、見渡らないなーと。
これは、三浦大知がダンスも踊れて歌もしっかり歌える、稀有な存在だからということもあるとは思う。
けれど、K-POP的なイズムにも染まらず、J-POP的な売れ線にも染まらず、過度にエモーショナルになることもはく、切実かつ丁寧に言葉を積み上げる三浦大知の歌だからこその、どっしりとした説得力があるのである。
そう。
「ALOS」もまた、そういう楽曲のひとつように思うわけだ。
ただ、「ALOS」って、2006年に打ち上げられた陸域観測技術衛星「だいち」(ALOS)から続く「だいち」シリーズ衛星のために書き下ろされた歌らしい。
つまり、大知がだいちのことを歌っている歌なのだ。
なななななななななな。
と思う。
ばばばばばばばばばば。
と思う。
だって、さっきまでめちゃくちゃ鼻息荒く「ALOS」の良さを語っていた俺は、びっくりしてしまう。
不動の存在感を放っている「ALOS」という楽曲の根底にあるのは、だいちが大知を歌うという、ある種のダジャレイズムだったのだから。
考えてみると、ダジャレというのは誰もが扱うことのできるシンプルなユーモアである一方、そこに一定の香ばしさをまぶしてしまうと、あっという間に”親父ギャグ”に変貌してしまうという、とても難易度の高いユーモアでもあるわけだ。
三浦大知の「ALOS」は、そういう難易度の高いユーモアとも向き合いながら作られていた歌であるというわけだ。
で、あの感じ。あの手触りになっている。
そのことを知り、驚いてしまうわけだ。
ただ、このタイアップの背景を知って、「ALOS」の音の運びが腑に落ちた自分もいる。
というのも、この歌って音がどんどん上に飛んでいって、サビで広がっていくイメージを覚えたからだ。
冒頭のシンセサイザーっぽい、みよ〜んという音の感じも、衛生が空に向かって解き放たれるような映像とシンクロする音の運びになっている気がする。
個性を際立たせながら、丁寧にタイアップ先と溶け合う三浦大知
そこで、ふと思うことがある。
この記事の冒頭で、三浦大知の歌って三浦大知でしかない、というようなニュアンスのことを書いた。
でも、三浦大知の歌って「ザ・俺」みたいな唯我独尊な感じがまったくしない。
むしろ、タイアップとなっている場合、タイアップ元と美しいシンクロを果たしており、そのタイアップに相応しい楽曲になっている。
記憶の新しいところで言えば、「燦燦」もそんな楽曲であろう。
この歌は、テレビドラム『ちむどんどん』のテーマと、三浦大知だからこその部分が綺麗に溶け合って生まれた楽曲だったように思う。
『ちむどんどん』の主題歌としての意味性がすごく出ていた歌だったように思うし、『ちむどんどん』というきっかけがあったからこその描かれ方をしていたようにも思う。
そう思うと、「ALOS」もまた、そういった要素を感じるし、タイアップとのシンクロ率を高められているからこその言葉やサウンドの構築を感じるのである。
こういう目配せを楽曲の中で節々に感じるからこそ、三浦大知の歌って三浦大知の歌にしかない響きを感じさせながらも、タイアップ先と溶け合うような、不思議な心地にさせてくれるんだろうなーと思うのである。
まとめに替えて
そんな「ALOS」に、今ものすごくハマっている自分。
Bメロでは、主旋律のボーカルとは別で、多重に声を重ねたコーラスでカウントしながら楽曲が展開する部分が特に好きである。
じっくり味わえば味わうほどに、魅力が溢れてくる、そんな一曲であるように思う。
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