星野源の「喜劇」、ふざけすぎな感
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タイアップソングって、色んなタイプがある。
ただ当然ながら、オファーがきたうえで楽曲を手掛けるのだから、基本的にはタイアップ先の世界観を踏まえたものであるはずだ。
そのため、原作をある程度読み込んでから楽曲制作に進むことが多いだろうし、使われるフレーズも原作を踏まえてのものであることも多いと思う。
ただ、その一方で、そのアーティストの世界観がそもそも原作にマッチしていると思われてオファーをかけた場合は、変にその世界観を変更してほしくないため、<いつもどおりで>的な感じで、発注をかけて、楽曲制作を進めるケールもあるように思うのだ。
こうなると、歌詞においても変に原作を踏まえたものを使わず、そのアーティストがよく歌うテーマやフレーズをそのまま歌ってみせるパターンもある。
で。
ここで、話を出したいのが、星野源の「喜劇」である。
この作品は、アニメ『SPY×FAMILY』のED主題歌に起用されている。
つまり、タイアップソングだ。
また、楽曲の反応をみている限り、「喜劇」は丁寧に原作の世界観を踏まえた言葉で構成された、楽曲のようである。
「ドラえもん」の名前を挙げるまでもなく、毎回タイアップ先に敬意を払いながら、圧倒的なアウトプットを手掛けた星野源だからこその<リスペクト>が「喜劇」にも宿っているといえそうだ。
ポイントなのは、星野源がタイアップ曲を手掛ける場合、単にタイアップ先をリスペクトした音楽に踏みとどまらない、というところにある。
星野源って、リスペクトの純度を最大限にあげつつも、きっちりと星野源にしかできないクリエイティブを発揮するのだ。
タイアップを優先した結果、そのアーティストの個性がなくなってしまった・・・みたいなことは絶対にありえないのだ。
しかも、楽曲ごとに宿っている通底してテーマを提示させて、あとから楽曲をまとまりとして聴いたときの一貫性も感じさせてくれるのである。
どういうことか?
ここから、もう少し詳しく話を進めてみよう。
星野源の「喜劇」の話
星野源の過去の楽曲には<家族>をテーマにしたものがいくつかある。
一番わかりやすいところで言えば、「Family Song」であろう。
この歌は以降の、「恋」にも繋がる社会的な枠組みを越えたうえで関係性を歌っている。
言ってしまえば、血の繋がり以外といった枠組み以外の家族の関係性を言葉にしている歌である。
そして、今回の「喜劇」もそういうことを踏まえながら、人の関係性について言葉をしたためている印象。
あの日交わした
血に勝るもの
心たちの契約を
このフレーズは、そのひとつと言えよう。(もちろん、タイアップ先を踏まえた部分もあるし、自分は丁寧にタイアップ先に触れていないうえでの指摘になってしまうので、許してほしい)
しかも、特定の人にしかハマらないこと世界観で言葉を紡ぐのではなく、あくまでも<生活>を軸にした中でその関係性を言葉にしていくのが印象的である。
この絶妙な眼差しは、星野源だからこそ、といえる。
というよりも、他のアーティストだと<当たり前>としてスルーするような観点にも、星野源はきっちり目を向けて言葉を紡いでいき、重ねていく。
だからこそ、宿らせることができる価値観があるように思うのである(こういう細かな視点があるからこそ、タイアップ先にも絶大なリスペクトを発揮できているとも言えそうだし)。
まあ、何が言いたいことを言うと、「喜劇」は、きっちり今までの星野源の楽曲のテーマの延長線になっているということである。
タイアップ楽曲だから、まったく違ったことが歌のテーマになっている・・・というわけではないということ。
なのに、タイアップへのリスペクトは圧倒的(しかも、タイアップ先のジャンルは毎回まったく異なっている)。
この辺りに、星野源の凄さが宿っているといえよう。
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サウンドについて
ただ、楽曲のテーマには一貫性が宿っている一方で、楽曲の質感は毎回刺激的かつ革命的であることが多い。
強いて言えば、おそらく今作は「創造」以降、実践しているというギターではなく、鍵盤を使った作曲手法を取り入れているように思うので、手触り的には同じく鍵盤で作曲を行った「不思議」と似ている部分がある。
でも、ここでいう<似ている>というのは、過剰かつとにかく面白いを打ち込んだ情報過多な楽曲ではなく、ミニマムかつ穏やかに楽曲進行していくという楽曲のスタンスの話であって。
楽曲の中に満ちている感動はまったく異なっている。
必要以上に波紋をたたせない打ち込み音。
甘くも鋭く存在感を際立たせるベース音。
音のスキマを丁寧に彩っていく数々の音の粒。
この辺りは、海外のポップシーンにも丁寧に目配せしている星野源だからこその音の配置であるように思う。
結果、サウンドの情報は丁寧に整理されているけれども、決して単にシンプルな楽曲では味わえない刺激に満ちているのだ。
まとめ
この記事のタイトルは「星野源の「喜劇」、ふざけすぎな感」、とした。
というのも、この歌は、
分かち合えた日々に
笑い転げた先に
ふざけた生活はつづくさ
というフレーズで楽曲を終わりを迎える。
ここでいう<ふざけた>というワードがどういう意味を持つのかははっきりと述べられていないが、楽曲をみていると、きっとこのワードにはポジティブな意味が宿っているように思う。
そして振り返ってみると、いつも自分は星野源の新曲に出会うたびに、その生活の表情が少しだけ変わって、音楽に対する感度において<ふざけた>面白さを生み出してくれるのである。
つくづくこの歌が、自分にとっての「喜劇」であるかのような、そんな感じ。
言葉にも、音にも、メロディーにも刺激が満ちた星野源の歌だからこそ、だ。
そんなことを考えていると、いやーつくづく星野源の楽曲、ふざけているよなーと思ってしまったという、そんな話。
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