BUMP OF CHICKENの歌が疲れたときほど心に染みる件

個人的に日々に忙殺しているときほど、新譜を聴くうえでのハードルが高くなる。

というよりも、忙しいときは昔から聴いている自分が好きな歌を聴く方がすーっと入り込む、という感じなのだ。

というのも、新譜って新しい故に咀嚼しないといけない情報が多い。

それ故、それを受け止めるのにある程度体力がいる、という感じなのだ。

なので、疲れているときは新譜よりも自分がずっとお気に入りにしている楽曲の方がすーっと入るのだ。

その中でも、自分的に随一の存在感を魅せるのがBUMP OF CHICKENである。

というわけで、この記事ではなぜBUMP OF CHICKENが随一で自分の身体の中に入ってくるのか、ということを書いていきたい。

本編

藤原基央のボーカル

近年の楽曲は特にそうなんだけど、藤原基央のボーカルってめちゃくちゃ優しく響く。

歌声で作られた毛布のような暖かさ。

点滴にも似た心地で、耳から身体の内部に入ってきて、そこから広がっていくように身体に妙な癒やしを与えてくれる。

ロック・バンドのボーカルって色んなタイプの人がいるけれど、声そのもので癒やしだったり、落ち着きを覚えるという意味では藤原基央のボーカルは随一なのではないかと思うわけだ。

ボーカルが内側にある繊細な痛みを的確に表現した優しい言葉を歌うので、その破壊力が絶大なものになるのだ。

思えば、今年発表された「Flare」も、そういう楽曲のひとつだと思う。

藤原基央の紡ぐ歌詞

ネガティブな歌もあれば、ポジティブな歌もあるBUMP OF CHICKEN。

ポイントなのは、ネガティブな歌の中にもネガティブだからこそ見つけることができるポジティブに光を当てるし、ポジティブな歌にはポジティブだからこそ覆い隠されがちなネガティブに光を当てる絶妙さがあるところ。

「アカシア」だと、<太陽がなくたって歩ける 君と照らす世界が見える>というフレーズを何気なく入れているんだけど、<太陽がない>というネガティブな事象を、たったひとつのフレーズの間にポジティブに変換している眼差しがあることに気づく。

こういう物事の捉え方をさらっと行えるところがBUMP OF CHICKENの優しさを際立たせる所以だと思う。

「ray」や「Aurora」といった近年の人気楽曲でもそういう眼差しは、とても大切にしている。

言葉ってどこまでいっても、その人が知覚している範囲でしか言葉にできない。

言葉の中に薄っぺらさを感じるのか、深さを感じるのかは、眼差しの広さにあると自分は思っているんだけど、BUMP OF CHICKENの歌はどこまでもその眼差しが広いのだ。

だから、ネガティブにもポジティブにも等しい光と影を見据える。

逆に言うと、「HAPPY」のように一見するとポジティブに見える歌の中には、どこまでも深い諦念をみてとることもできるわけだ。

もちろん、これはポジティブとネガティブというシーソーだけではなく、<君>に対する表現方法とか、歌の中に潜む時間軸とか、比喩の使い方とか、色んな要素でいえること。

いずれにしても、単純な歌を単純なままで終わらせない。

けれど、頭をつかって聴かないといけない難しさがあるわけでもなくて。

絶妙なバランスの中で構築された深さと優しさがあるから、疲れているときほどその歌詞が染み渡っていくのである。

BUMP OF CHICKENが紡ぐサウンド

BUMP OF CHICKENのサウンドって必ずしも楽器隊が強く主張するものではない。

ネット社会になって、クソほど演奏が上手い人が目に付きやすい世の中なので、より上には上がいるの景色が見えてしまうご時世でもある。

でも。

それを踏まえても、BUMP OF CHICKENのサウンドってどこまでも特別だなあと思っていて。

というよりも、音を作るうえでの発想がまったく違うんだろうなあと思っていて。

BUMP OF CHICKENのサウンドはどこまでも<曲>が中心にあって、その<曲>が一番良い表情をするためのサウンドがある、というような感じがするのである。

「ロストマン」だって、アレンジで言えば、わりとシンプルだし、技巧的、というわけではないかもしれない。

でも、この言葉とこのメロディーを表現するうえでは、このサウンドしかないなーという音で構築されているのだ。

少なくとも、この歌を別の人がカバーして、まったくテイストが変わる技巧的なアレンジしても、歌の魅了が限りなく減ってしまうように思うわけだ。

それぞれの歌が、それぞれの輝き方をするための音を確実な形で選ぶ。

それは、BUMP OF CHICKENのメンバーだからできることだろうし、たぶんこのメンバーじゃなければ藤原基央の歌が真の意味で輝くことはなかったと思うわけだ。

改めて曲を聴き直せば聴き直すほどに、そう思うのである。

そして、そういうベクトルでサウンドが形成されているからこそ、疲れているときでもすーっと歌が入ってくるし、アルコールとポカリスエットを併用して摂取するときのように、想像を超える速さで楽曲の感動が身体の中を駆け巡るわけである。

まとめ

BUMP OF CHICKENの歌が末永く愛される理由。

疲れているときほど、実感する心地よさにあるのだなあと改めて感じたという、そういう話である。

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