前説
[ad]
今年になってから小林私にハマっている。
なぜ、小林私の音楽に魅了されているのか。
この記事ではそのことについて簡単に書いてみたい。
本編
存在感のある歌声
小林私のアー写をみてもらうとわかるが、整った顔をしている。
見方によっては、中性的な雰囲気も解き放っている。
そのため、歌声も中性的な雰囲気を解き放ったものなのかなーと勝手に想像してしまう。
でも、実際に歌声を聴くと、良い意味でその予想を覆される。
チョコレートでいうと、カカオがたっぷりはいってそうなビターな響き。
力強くて、パワフルで、存在感のある歌声を解き放つ。
ここぞの場面で、低音強めのこぶしをきかせるのも、個人的なツボ。
そう。
この見た目とボーカルのギャップがたまらないのだ。
音楽作品以外の動画のテイストやSNSでの立ち振舞をみていると、あまり<強い>歌を歌うタイプではないのかなーと勝手に思ってしまうのだが、実態は逆。
歌そのものが力強くて、歌そのもので自分の世界をつくり、惹き込んでいく凄まじさがあるのだ。
そういうタイプのボーカルであるから、バラードであったり、シンプルなアレンジがとにかく映える。
すでに配信されている楽曲では弾き語りのナンバーも多いんだけど、ボーカルの感情表現が豊かだから、素朴なアコースティックギターのみのアレンジが至高になっていくのだ。
「悲しみのレモンサワー」は、そんな小林私のボーカルとしての魅力を体感できるバラードだと思っている。
[ad]
ギャップがあるライブパフォーマンス
逆に楽曲から小林私に入った人からすると、ライブのパフォーマンスなんかにギャップを感じるのかもしれない。
自分もライブはまだそこまで観ているわけではないが、そのパフォーマンスを端的に言えば独特。
フェス尺のパフォーマンスでも、ゴリゴリにMCに時間を割くのである。
そのMCが面白い。
・・・まあ、面白いと感じるかどうかは人によるのかもしれないが、自分は一切飽きない面白みがそこにあった。
切れ味鋭いトピックとワードチョイスで漫談に近い進行をしていくし、間とかも気にせずに言葉を紡いでいく感じがツボなのである。
いずれにしても、楽曲とは違うキャラクター性を発揮して、そこまでまた魅了されてしまうのである。
逆にいえば、どれだけMCで不思議な空気を作っても、ひとたびギターを鳴らして小林私が<歌うモード>に入ると、がらっと空気を変えてしまうのがゾクゾクしてしまって。
鮮やかなギャップが、より楽曲の美しさを際立たせていくのである。
あと、YouTubeに挙がっている動画コンテンツもまた独特だったりするんだけどね。
なんか、一時期ずっとポケモンの絵ばかりを書いていたしね。
溢れんばかりの表現力
ふざけるときはとことんふざける。
締めるところはしっかり締める。
そのギャップがたまらない、という話である。
あと、何気にビジュアルまわりのセンスも良いよなーと思っていて。
「生活」のMVを観ていると、身につけている服装含めて、ビジュアルまわりのセンスが花開いている印象を受ける。
小林私って、汚い一人部屋でギター一本で歌うのも絵になるタイプだし、着飾ったステージの上でダンサブルに歌いこなすのも絵になるアーティストだと思っていて。
そういう絵になる魅力を、常に放っていると思うのだ。
これって、それだけアーティストしての表現力が高いからだと思っていて。
シンプルな弾き語りアレンジが映えるほどの表現力を持っているからこそだと思っている。
今は、まだリリースされている楽曲のジャンルの幅って、そこまで広くないんだけれど、きっとここからさらにそこを広げていくのだと思う。
なんせ、どんなアレンジも自分の表現に落とし込む凄みが、小林私にはあるから。
きっと新曲をリリースするたびに「おっ・・・」ってなる表現を見せつけて、どんどんその世界観を広げていくのだと思う。
今はそのときが楽しみで仕方がない。
まとめに替えて
独特の立ち位置であるが、自分は端的にアーティストとしてのアウトプットが好きなんだよなーと楽曲を聴くたびに思う。
先日発表された「包装」というミニアルバムでも、小林私の円熟した深みのあるボーカルを体感できる楽曲が多数収録されている。
渋みがあって、ブルース感のある楽曲が目白押し・・・かと思えば、作品のラストに収録されているのは「アニメ漫画研究部の姫は俺のことが好きなんじゃないか」。
千鳥に教えたら「クセが強い」とツッコミそうなタイトルである。
いや、この楽曲も小林私のガレージみのある歌声が炸裂しているし、単純に聴き入ってしまう楽曲なんだけど、<そこ>を歌にするのかという面白さがあるのだ。
作品ごとに、ライブごとに、動画ごとに、色んなギャップをみせる小林私だからこその魅力がそこにはらんでいる。
今は、ただもうちょいしたら発表されるという<新曲>が楽しみで仕方がない。
[ad]