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BUMP OF CHICKENのアルバム「Butterflies」に収録されている「宝石になった日」の歌詞について書こうと思う。

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カルピスのCMソングにも起用されているこの楽曲。

歌詞はどんなものに仕上がっているだろうか。

※当記事について著作権違反という申し出があったため、歌詞の引用部分に関して一旦全て削除にしますが、お手数ですが、歌詞に関して別サイトでご参照になりつつ、当記事をお読みください。お手数おかけいたしますが、よろしくお願いいたします。

作詞:Motoo Fujiwara
作曲:Motoo Fujiwara

1番のAメロ、Bメロについて

「夕立が屋根を〜眺めて何分」について、夕方が屋根を叩いた歌ということは、ぴちゃぴちゃとかそんな感じだろうか。

「窓の外で世界を洗っ」たというからには、そこそこ外は土砂降りの夕方だったのだろう。

「世界を洗う」雨の量って、考えると相当である。

まあ、この辺は雨で地面がぐしゃぐしゃになっている光景をイメージすればいいのではなかろうか。

何でもない光景を比喩にして、内面世界を表現するのは藤くんのお家芸なのである。

心象描写というやつだ。

外の雨=心の悲しみ

なわけであり、気持ちが土砂降りのようにどんよりと沈んでいることにかけているわけだ。

また、外は土砂降りなのに対して、僕は動くこともせずぼんやりとしている。

静と動を並べることで、より「僕」がぼーっとしていることをしっかりと表現しているわけである。

何分という言葉で締めくくっているのは、ぼんやりとしているのに、明確な時間経過があることを表現するため。

ただし、この歌は大きな時の流れを歌うような歌ではないことも、ここで明示している。

だから分単位の話になるのである。

歌詞の続きをみてみよう。

「君は夜の〜消えていった」の部分について。

ここでポイントなのは「君」とは誰だろう?ということだ。

藤くんの歌詞だと、君は擬人化された何かであることが多い。

この部分の歌詞だけみると、

君=稲妻

になるわけだが、当然ながら稲妻というのもひとつの比喩である。

暗くて冴えない僕に光を照らしてくれる輝かしい存在であることを例えて「稲妻」と表現しているわけだ。

ただし、稲妻の光とは一瞬間のものである。

稲妻はすぐに消えてしまう。

今では、僕の側に君はいないわけだ。

一体、僕と君の間に何があったのだろうか。

歌詞の続きをみてみよう。

「あとどれくらい〜運ばれていく」の部分。

ここでさす「普通」とは何なのかよくわからない。

ただ、おそらく今の僕は君を失い、悲しみに暮れているわけであり、その悲しみから吹っ切れたとき、はじめて「普通」に戻れるのだろう、ということはなんとなくわかる。

やはり、僕にとって、大切だった君はもうここにはいないことがよくわかるフレーズだ。

そして、サビに入る。

1番のサビについて

「あの温もりが〜ずっと夢に見る」の部分である。

君がいたことが宝石といえるくらい大切だったということはわかるが、やはりもう君は僕の側にいないわけだ。

君に会えなくなって泣いた日もあったけど、今はおさまった。

それでも、君のことを夢に見てしまう、と歌詞にある。

君が大切なことはよくわかったが、なぜそんな君と別れてしまったのかが疑問に残る。

君は一体何者で、僕との間柄はどんなもので、君とはなぜ離れ離れになってしまったのか。

そこに焦点を当てて、歌詞の続きをみていきたい。

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2番の歌詞について

「太陽は〜なお世話」の部分。

雨だった一番と対比させて、太陽を登場させる2番の歌詞。

君を失ったままでも時は無情に過ぎていくことがよくわかる描写である。

天気が変わってるということは、それだけの時間が経過していることを表現するとともに、僕の心にはまだ雨が降っているのに、そんなことも知らずに現実世界では太陽が出てくるという対比もここでは重要なポイントだ。

そりゃあ背中だって丸めたくなる。

そんな背中で隠している太陽。

太陽に背を向けるというのもひとつの心象描写。

要は光に背けるくらい、まだまだ暗い気持ちでいるというわけだ。

「出来る事はあんまり〜でも止めないよ」の部分をみてみよう。

ここでポイントなのは、日常が全自動で動くという表現。

要は自分の思いなんておかまいなしに、無情にも時間はどんどん過ぎていっている、という表現である。

出来ないことはおそらく君を取り戻すことで、出来ることは君を失った悲しみから早く立ち直ることだということはなんとなくわかる。

だから、出来ないことは少ないけど、まったくないわけではないと言ってるわけだ。

そして、次のフレーズがポイントとなる。

「出来るだけ先の未来まで〜運んでいくよ」の部分。

死なずに僕は生きていく、できるだけ長生きする、という感じの歌詞だが、なぜこんなこと言うのだろうか。

ここでひとつ予測できる。

君はもう死んでしまったのではないか。

だからわざわざここで僕は「生きていく」ことを宣言するのではないか、と。

そして、サビである。

「こんなに寂しいから〜弱くもないから」の部分。

寂しいと思える感情、それこそが尊くて大切なんだぜというフレーズ。

確かに悲しみを感じるから喜びがあるわけで、感情があるということはそれだけ「しっかり生きている」ということでもある。

時間が経っても消えない寂しさを「時間に負けない」と表現するのは、実に藤くんらしいフレーズである。

強くはないけど弱くもない、とは何にも言ってないに等しいわけだが、対比の言葉を並べて何にも言ってないのに、でも何か言ってる感じにさせる藤くんらしいレトリック。

Cメロ〜最後のサビについて

「瞬きの中〜残る君の足跡」の部分。

事前に使ったフレーズを再利用するのが藤くんの歌詞の特徴。

君はいないけど、でも見えない部分で君を感じるよ、と言っている。

大事なのは記憶ということなのだろう。

雨が足跡を流したということは、その地にもう君がいないことを予感させるフレーズ。

そして、君がいる場所は全て記憶の中であることを予感させる言葉ばかりが並ぶ。

ただ単に、恋人や友達と別れただけならば、こんな言い方はしないような気がする。

なにより、ものすごい強い光を一瞬だけ放つ「稲妻」という言葉に例えていることは、つまり…。

もう「いなくなってしまったもの」だからこそ、すぐに消えてしまう「稲妻」に例える必要があったのだろう。

「増えていく〜会いたいよ」の部分。

ここで絶望的なまでに僕と君には距離が空いており、生きている世界が違うことを告発するわけだ。

生きている世界が違うということは、やはり、死んでしまったのではないか、という予感が生まれる。

いずれにせよ、僕はもう君に会えない。

会えるのは記憶のなかでだけ。

記憶の中に君の足跡を残している僕は、それでも「会いたいよ」と切望するわけである。

そして、最後のサビ。

結局、なぜ君がいなくなったのかわからないまま、この歌詞は終わってしまう。

そして、結局、君が誰なのかも語らずに、この歌詞は終わってしまう。

でも、僕は君のことを大切に思っているけど、もう二度と君には会うことが出来ないことだけはわかるわけだ。

もしかしたら、これは失恋の歌で、恋人ともう会えないことを嘆いている歌なのかもしれない。

もしかしたら、これは友情の歌で、引っ越しとかそういう物理的な理由で距離が離れてしまい、もう会えなくなってしまった子供の歌なのかもしれない。

もしかしたら、ずっと一緒に過ごしてきて、愛犬が老衰で亡くなってしまい、悲しみつつもなんとか前を向こうとしている歌なのかもしれない。

もしかしたら、君というのは過去の自分のことで、「夢を見てキラキラしていたときの、それこそ稲妻のように輝いていたときの自分」なのかもしれない。

あるいは君とかいているが、それは夢の比喩なのかもしれない。(本当は形のないものを擬人化させるのはそれこそ藤くんのお家芸なわけだ)。

ガラスのブルース、K、ダンデライオンで三匹の猫を天国に葬り去った藤くんであるが、今回の歌では、あえて、君が誰なのかは明言しないで、聴き手に想像を委ねている。

もしかすると、聴き手にとって宝石のようなものは何かを考えさせ、そこに「君」を当てはめて考えてほしいという藤くんなりのメッセージなのかもしれない。

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