BUMP OF CHICKENの「記念撮影」の歌詞について書いてみたい。
歌詞の考察〜僕と君の関係性について〜
さて、この歌における僕と君の関係性、あなたはどう捉えるだろうか?
「遠吠え」「ブレーキ」「一本のコーラ」「レシート」などわりと具体的なフレーズが出てくる。
その言葉のイメージから、部活帰りの光景を連想する人が多いのではないだろうか?
「終わる魔法」という言葉も、学生生活とか青春とか、そんな言葉に置き換えられそうなニュアンスに感じる。
つまり、君とは学生時代の親友、と解釈ができるわけだ。
実際、「記念撮影」というタイトルからも分かる通り、過去の輝かしい思い出を、今という地点から振り返り、その過去は未来に繋がっている、という「時間の流れ」みたいなものがこの歌のテーマなわけで、そこから考えても、君=青春時代の親友、という捉え方はわりとすっと入る。
君=学生時代の親友
悪くはない仮説だと思う。
が、個人的には納得がいかない部分もある。
例えば「あれほど近くて だけど触れなかった 冗談と沈黙の奥の何か」というフレーズがあるが、これは、この親友とくだらないことを言って笑いあったりするのに、本当に突っ込んだ話はしなかったり、夢とかマジメな話をすることは避けてきた、みたいなニュアンスだと思うのだ。
つまり、君とは仲が良かったけど、腹をわって何でも話せる仲ではなかったことになる。
そんな友達と別の道に進んだことを「迷子」と形容したり、その一方で「僕らはどこへでも行ける」と言って見せたり、なんか君に対する熱の入れ方に違和感を覚えるのだ。
一緒に夢を語り合わなかった奴のことを「お前はどこまでも行けるよ」なんて言ったりするだろうか。
今はもう君とは連絡が取れないことがこの歌の節々から伝わるが、「どこまでも行けるよ〜」なんて嘯くくらいなら、FACEBOOKでどんな様子か見てやればいいんじゃね?みたいなことを感じてしまう。
それくらいの肩入れをする友達と、完全なる音信不通になるという感覚は違和感しか覚えないわけだ。
大体君が本当に大切なのだとしたら、例えば「君に会いたい」とか、「未来でもう一度君に会えるよ」みたいな感じの歌詞にすることだってできたはずなのに、それをしていない。
この主人公はもう君と会うつもりもないし、会える可能性に対する検討すらしていないように見える。
君はどこへでも行けるよ、と言ってるのに、このサバサバ感、おかしいと感じてしまうわけだ。
「迷子」という言葉だって、本質としては君とはぐれたことを指していると思う。
なのに、会える可能性を検討しないのは、やっぱりおかしい。
ただの親友なら、なおのこと。
と考えると、「君」という人は、もっと違う何かなのではないかと考えてしまうわけだ。
これについて、もう少し深く考えてみたい。
歌詞の考察②〜過去と今と未来の時間軸について〜
この歌は、過去パート、現在パート、未来パートに分けることができる。
まず、最初の「目的や〜見ていた」までが現在パートである。
そこから、2番のサビである「そして今」までが過去パートとなる。
そして、「そして今」という言葉が出てきたから現在パートにいくのかと思いきや、そのまま一気に未来パートに移行する。
ただし、ただの「未来」ではなく、「想像じゃない未来」というのがポイントである。
普通、未来に対する形容詞って「あの時思い描いていたものかどうか」をポイントにすることが多い。
だから、通常は、想像していた未来に近いのか近くないのかをポイントにするような形容詞の付け方をするわけだ。
だが、ここでは「想像じゃない」未来であることしか強調されない。
つまり、未来は絶対にくるという、その「絶対性」だけを強調するのだ。
未来という現実をチラつかせながらも「どこまでもいける」と言い切ってしまう辺りに、妙な違和感を覚える。
微妙な時制の歪みを感じるわけだ。
未来に無限の可能性があることを言いたいのか、未来はもう「想像じゃないもの」であることを言いたいのか、どっちやねん、というわけである。
ところで、時間を止める道具って、実は二つあることをご存知だろうか?
一つはこの歌にも出てくる写真である。
写真が一度シャッターを切ってその映像を焼き付けたら、基本的にそのまま時間を止めたままの自分を映す。
そして、もう一つ時間を止めることができる道具が「文章」である。
このブログもそうだが、そこに文字を書き綴ると、それは時間に晒されることなく、そこのメッセージは残りつづける。
日記はそういう性質を期待して付けるものである。
話はそれたが、この歌は写真を撮るモチーフをちょいちょい出してくるが、このシャッターをきって写真を撮った人って誰だろうか。
まさか知らないおじさん、というわけではないだろう。
ここで注意深く歌詞をみていくと、シャッターを切るとか、写真を撮るというモチーフは比喩であることがわかる。
シャッターというのは「瞬き」の比喩なわけだ。
そして、写真を撮るという作業をしているのは自分自身であり、瞳を通じて記憶に焼け付けることを「写真を撮った」という言い方にしているわけである。
「固まって待ったシャッター レンズの前で並んで
とても楽しくて ずるくて あまりに眩しかった」
このずるくて眩しいと感じてるのはまさしく自分自身なわけであり、この自分自身がまさしく「レンズ」なわけだ。
瞬きができないくらいに、自分の記憶の過去の映像に食らいついているからこそ、シャッターという名の瞬きが固まってしまうのである。
だからこそ、「レンズの向こう世界に投げる」=今の(未来の)僕という言葉に繋がるわけだ。
この歌に、本物のカメラなんて一度も出てこないのだ。
「記念撮影」とは、言い換えたら、自分の記憶のこと。
ここまで言えば、わかるだろうか?
この歌の視点(シャッターという瞬きを持つ視点)は「未来の僕」なのだ。
そして、君は「過去の僕」であり、僕は「今の僕」なのだ。
この歌には、三人の僕が出てくるのだ。
だから、今という時制が出てくるタイミングで「想像じゃない未来」という言葉が出てきて、時制に歪みが生まれる。
でも、この歌の視点はあくまでも未来の僕だから、今=未来になるわけで、未来の僕だからこそ、その未来は「想像じゃないもの」になるわけだ。
末尾が「今僕がいる未来に向けて」という言葉で締めくくられるのも、そういうことである。
なぜ僕が君にはもう会えないのか、そして、僕のいる時制に歪みが生じる理由も、わかったのでないだろうか。
この歌には、三つの時制が巧みに出てくるわけだ。
全て自分という一つの歴史でその時制を繋げることができるからこそ、「写真」というアイテムで時間をワープすることができるのである。
そして、未来にいくのは過去の自分も今の自分も含めての話だからこそ、「どこまでも行ける」の主語は「僕ら」になるのである。
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読ませていただきました。なるほどなーと思いました。( ˘ω˘ )
一つ質問なのですが、一本のコーラを挟んで座った相手も、僕なのでしょうか。そう考えるのは少しキツイかなーと思ったのですが。
もしかして、一本のコーラを挟んで座った相手は「君」とは別人だったのでしょうか?
基本的に心の描写とか、内面の描写だと僕は考えているので、今の僕と過去の僕の対話という認識で考えています。過去の僕と今の僕との対話が未来を作っていく、みたいなイメージですかね
こんにちは。早い返信有難うございますm(*_ _)m
ということは、一本のコーラを挟んで座った、とか、遠くで聞こえた遠吠えとブレーキ、とかは藤くんの内面の描写であり、
藤くんは、頭の中で、もう1人の僕(君)と一緒にいたが、最終的にはそれとはさよならしてしまったよー。的な見解であってますかね。笑
もう一人の僕とさよならするのって、アリアもそうですよね。あとロストマンとか?(記念撮影では、自分からサヨナラするというよりは、あっちからいなくなってしまったの方が正しそうですね)
僕は、藤くんが具体的な描写をするときって、例えば車輪の唄みたいに、実際にあった出来事だと思うんですけど、今回はそうじゃないのかー。と疑問に思った次第です。
遠くで聞こえた遠吠えとブレーキ→イヌがワンワン吠えて、自転車の音がして。(君がやってきた)
一本のコーラを挟んで座った→君と一緒に座って
好きなだけ喋って……一緒になぞった→色々喋ったり、色々歌ったりしたよね
的な。まあ解釈は人それぞれですよね。なんだかすみません。(笑)
そういう見方もあるとは思います!音楽を聴くのって「答えあわせ」をするっていうよりは、こんな捉え方もできる、こんな見方もできるって広がりを戻せられるから楽しいのだと思いますし、僕もこれを書いたときと、聴く分にはよっては歌詞の捉え方もだいぶ変わりますからね笑 藤くんの歌詞はまさしく色んな捉え方ができるからこそ、凄いっていうのもありますしね!
やっぱり返信がお早いΣ(゜ロ゜;)
なるほど、そうですよね!(((uдu*)広がりがあっていろんな解釈ができるのがBUMP OF CHICKENの良いところでもありますしね!藤くんすごい!笑
聞く時によっても変わるのは、よく分かります。嫌なことがあった日とか、曲がいつも以上に悲しく聞こえたりしますし。
解釈、凄くわかり易かったです。参考になりました。有難うございました。m(*_ _)m
こちらこそ、拙い文章を最後まで読んで頂いてありがとうございます!!些細なことでもいいので、質問でも感想でも何でも頂けたら嬉しいです!