BUMP OF CHICKEN「Butterfly」の歌詞の意味は?解釈と考察
BUMP OF CHICKENがおよそ2年ぶりのリリースする8枚のオリジナルアルバム「Butterflies」。
今回はその表題曲である「Butterfly」の歌詞を見ていこうと思う。
で、先に書いてしまうと、この唄は天体観測やプラネタリウム、あるいは宇宙飛行士からの手紙と同じように、僕(あるいはネガティヴな感情)ともうひとりの僕(あるいはポジティブな感情や衝動)という、本来であればもっとも近いはずの両者の距離の「遠さ」を歌った唄だと思うのだ。
どういうことか。
みていこう。
Aメロ~Bメロについて
BUMP OF CHICKEN「Butterfly」
基本的に藤原基央は内面とか心の世界を意識させる。
冒頭、今回は「内側」という言葉を使っている。
この言葉によって、きっとこの歌は人の心とか内面について歌う唄なのだろうと想像させるわけだ。
その後のフレーズでは「自分は他人の痛みに積極的に気付くような人ではないが、そんな自分も人から気づかれない痛みをもっていること」を伝える。
これも結局、先ほどの内面の話と噛み合っていて、傍目からみると元気そうに見える人も、内側をみたら色々と悩みを抱えているんだよ、と言っているわけである。
次の「いつか知った何かの言葉~動きを鈍くした」というフレーズは、ネットやSNSが発達した今の世代はついつい情報ばかりを頭に詰め込み、頭でっかちになって動けなくなってしまうことが多く、このお店はダメだとか、この仕事をしたら苦労するぞ、とかそんな批判の言葉をすぐに見つけてしまう現状を例えているのである。
情報収集すること=重い鎧
というわけだ。
批判が目に付くものはどうしても避けたくなってしまう。
結局、情報収集に徹してしまい、理屈をつけて行動に移さない人がとても多くなってしまうわけだ。
そんな現代人を揶揄するような言葉がここで紡がれているわけである。
みんな、頭でっかちになってしまっているよ、と言いたいわけだ。
そして、このフレーズがこの唄のポイントだったりする。
というのも、今回の比喩のイメージは、最終的に蝶々の成長の過程に繋がるように巧みに作られてるのである。
だから、ここでは蝶々になる前の「サナギ」をイメージを想起させる言葉を使っているのである。
次のフレーズをみてみよう。
「光らなくなった~決めている」のフレーズについてであるが、「光らなくなった靴の事」というフレーズは「昔はキラキラした夢に向かっていたが、今は歩くことを止めてしまった僕」を指して書かれている。
忘れてしまった唄のこと、とは夢をみていたときに大好きだった唄のことを指しているのだろう。
大人になるということは大切にしていた夢を諦め、何事も受けれていくことなのだろう。
そういう気持ちを失くさないで運ぶ、そんなやり方はないのだ、と一番のフレーズは諦めきってしまっている。
次のフレーズをみてみよう。
「誰にも聞こえない~誰だろう」の部分である。
藤くんの歌詞はセカイ系とも通じるところがあり、必ず歌詞はふたつの方向に向かう。
ひとつは壮大な宇宙、そしてもうひとつは僕と君というとても小さな距離。
とても大きなことを歌っているように見せかけて、とても小さなこと、繊細なものを歌うわけだ。
今回の歌詞ではまだ「君」は出てこないが、「誰だろう」というフレーズを使うことで、もうひとり、ここに誰かがいることを予感させる。
内面世界にいる君とは一体何者なのか。
歌詞の続きをみてみよう。
サビについて
自分というのは簡単に変わるものじゃないけど、心を変えて見方さえ変えれば世界自体は意外と簡単に変わるのだ、とここで指摘する。
ポイントなのは、ここまでこの歌詞は一切外側の話はしないで、自分の内側の話に終始していることである。
先ほども書いたが、それはまさしく蝶々が羽化する前、サナギになってじっとしている光景に似ている。
内面世界=サナギの中という方式を徹底しているわけだ。
ところで、気になるのが量産型という言葉である。
この言葉は何を指しているのだろうか。
それについては後述するので、先の2番の歌詞をみていこう。
2番の歌詞 Aメロ~Bメロについて
最初のフレーズは歌詞の意味を読み取ること自体はそこまで難しくはないと思われるが、ここは一番と違って内面世界からは少し離れた記述をしているように見える。
「旗」という言葉や「歩く」という言葉がそう感じさせるのだろう。
ここでは、夢とか想いという言葉の比喩に「旗」という言葉を使用しているわけだが、なぜ、この言葉をチョイスしたのだろうか。
今まで流れからみると、「旗」という言葉は少しだけ浮いているような印象がある。
まあ、藤くんは旗という言葉が好きだからぽろっと使っただけなのかもしれない。
fire signやsailing dayなんかでもこのモチーフは登場させているわけだし。
この段階では理由はわからないので、次のフレーズをみてみよう。
「光らなくなった~上手に出来ている」の部分である。
似たようなフレーズを使い、一番と二番の対比を明確にしたうえで、1番では絶望や失望を歌い、2番では勇気や希望を歌うのは、藤くんのお家芸のひとつであるが、このワードをこういうふうに輝かせるのはさすがである。
同じ言葉を付け足しただけなのに、そこに与える意味がまったくもって違うわけだ。
失くさないで運んでいく、という作業を「やり方」という言葉で表現しているのはとっても独特である。
これはひとつのポイントで、後半のフレーズに結びつく。
2番~3番のサビについて
ここで具体的に「君」が登場する。
この「君」って誰だろうか。
この唄は内面を歌った唄であり、他人である可能性は低い。
そこで量産型=僕=君ではないかと想像するわけだ。
もちろん、涙の羽を与えるのだから、この君という人物は只者ではない。
しかも、君がみたものから心が生まれると書いているから、この君の凄さは相当なものである。
冒頭のフレーズで僕は悲鳴をあげたと書いているが、その悲鳴を聞いて、ため息を胸に手を当てさせた張本人は君だろう。
この君とは、キラキラしたもうひとりの僕、という言い方もできるが、もつひとりの僕、というよりは僕の中にある別の感情という方がしっくりくるかもしれない。
自分の中に眠っていたキラキラとした感情、とでも言おうか。
要は自分の心の中に光を宿してくれる「何か」を指して、藤くんは「君」と呼んでいるのである。
だから、この君というのは、厳密な意味で正体はないのかもしれない。
誰?というのは野暮な言い方なのだ。
だって、これは内面の話なのだから。
サビをみていくと「飛んだ」という言葉が使われているが、これはまさしくサナギが羽化すれば綺麗な蝶々になって飛んでいくサマを想像させる描き方である。
そして、サナギのときは、それこそ量産型のように見た目に違いなんてほとんどない。
だけど、蝶々になったとき、それぞれの蝶々は羽に綺麗で個性的な模様を付けて、空を飛ぶわけだ。
量産型だった僕は、新しく生まれ変わる瞬間である。
でも、その羽は簡単に生えてくるものじゃない。
流した涙の分だけ、それが自分の「羽」となって、より高く自由に飛べるわけだ。
ここでいう涙とは悲しい過去や苦労や苦しみを引っくるめて指しているのだろうが、自分のキラキラした感情に触れることでそれは「羽」になると言っている。
飛ぶのあとに「踊る」と表現したのは、その飛び方がいかに自由なものであるのかを表現するためだろう。
涙が羽をもらって喜んで飛んだ踊った、というモチーフは、実はRAYにも見受けられる。
それがこの部分。
「あまり泣かなくなっても ごまかして笑っていくよ
大丈夫だ あの痛みは 忘れたって消えやしない」
誰だって痛みがあることは当たり前だけど、その痛みこそが君を形付くる大切なものだと藤くんは言うわけだ。
流した涙や消えない痛みがあるからこそ、より僕たちは「キラキラした未来」を生きていける、と言ってるわけだ。
だから、その痛みや悲しみを悲観する必要なんてない。
これは幸せの序章なんだよ!受け入れてあげよう、といっているわけだ。
この唄の僕がネガティヴな僕なら、この唄の君はキラキラした僕なのである。
やはり、僕=君なのだ。
さらに言えば、僕も君も感情のことを指しており、感情というものは量産されるから、この唄は僕も君も量産型だといっているのだ。
負の感情は愛されなかった量産型かもしれないが、この感情のおかげで飛んで踊れるように羽ばたけるのだ。
ジャケットを思い出してもらえば、バタフライの周りを色んな色が埋め尽くされていることがわかる。
喜怒哀楽という言葉だけでは言い切れないほど、人の内面には色んな感情が渦巻いている。
それを示したのがあのジャケットであり、そんな内側の感情の変化を、僕と君、あるいはサナギや蝶々というモチーフを使うことで、丁寧に表現したのがこの唄なのである。
この唄は、君の中の感情同士の話だから、外側のことはあえて一切語らない。
そして、だからこそ、最後にこう問い掛けてこの唄は終わるのだ。
本当はもっと知っている ずっと、と。
君の内側の感情は今、君に何を語りかけているだろうか。
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量産型は、本当は大切な感情なのに、よくあること、繰り返すこと、普通なこと、特別でないことようで見逃してしまっている
という、メッセージを言い換えたものだと思いました。
バンプ自身の事を歌ってるんじゃないですか?
僕はこの歌の最初のとこでは自己中心的な自分、自分は人の事を心配していないが人に心配されたいみたいなとこがあるような気がします。あとは自分を守ることを第一に考えているような気もします。そうなっているから先に進めないつまり「光らなくなった靴」となるのではないでしょうか?
また、「旗」の話なのですが、これは夢や目標を表していると思います。「誰かの掲げた旗」のところは周りに流される自分というものを表しているのではないでしょうか?でも、自分自身で「作った旗」つまり夢や目標を捨てきれずにいるのだと思います。歌の後半の方はそうした自分自身の夢に向かって羽ばたいていく自分を表しているのではと思います。
まだ、にわかで歌の解釈をうまくできない気もしますがこんな解釈はどう思いますか?
自分一人のことについて歌った歌という意味では僕も同意ですよ。
サイトの解説興味深く拝見させて頂きました。
ひとつだけ、自分は量産型を涙そのもの、もしくは泣いている自分自身の心境と解釈しました。
歌詞からしても、蝶々は涙のメタファーであり、君というのは少年の心を持った自分自身。つまり、流す涙は自分の心が決めるものと、そんな感じがしました。
愛されたがった量産型は、自分のことが嫌いなのに、ただ気づいて欲しくて流れた涙たち。
愛されなかった量産型は、忘れてしまっていた涙たち。
後者の涙が真に美しいことを知っていたはずなのに、それを気付かせてくれたのは君=少年の心なのかなと。
それが感動の涙なのか、悔しさ故の涙なのかはわからないけど、夢を忘れず自分の心に素直になれば、流す涙は蝶々のように自由で美しいんだなと思いました。
ちょっと遅いかもしれませんが、この曲はファンに向けている曲の印象を受けました。
私の考え方では、
誰にも聞こえない悲鳴は他人に理解できないことで苦しんでいて、
理解されないことはわかっているので気づかないふりをしているけど、本当は他人から(ファンから?)苦しんでいることを理解されたい。
どこかで聞きかじったような言葉で、
重い鎧のように理論武装して、結局動きづらくなってしまった。
輝いてた夢(靴)、好きだった事?を忘れてしまったけど
でも夢や好きだったことはそのまま忘れずにいる。
そこに忘れなきゃいけないとか、忘れるなとかの絶対はない。
明日変わろうって言ったってそれを意識しただけの自分なわけで、
変わろうとせず理想の自分になりたがってる平凡な自分(量産型)
でもそれは自分の心の持ちようで、いくらでも考え方(世界の見方)を変えられることを知ってはいる。
決められたレールの上を大人しく歩むけど、
自分の理想もちゃんと持ってる(実現には動いてはいないけど)
なんとなく右へならえして、生きているけど、
結局理想はあきらめきれない。
輝いてた夢や好きだったものを忘れてしまったけど、
夢や好きだった事はそのまま忘れずにいる。
(正しいとか間違いとかはないけど)その生き方でうまくいってる。
涙(そうやって生きてきてできた唄)は君(ファン?)に聞いてもらって、
喜んで、飛んでいくし、踊る。
それがあまりにも綺麗だから納得(満足?)してしまって、平凡なままでいる。そして悲しいほどに(平凡な)自分は思っているよりも強くて、消えないし、消せない。
何よりも綺麗な事(喜んで飛んで踊る唄を指す?)は本当はもっと知っている。(ここではファンに聴いてもらった唄の事?)
繰り返すのは強調したいということかと。
このまま平凡な自分が最後まで(生涯唄う決意?)命を唄った(命は曲中の涙(喜んで飛んで踊る唄)を指して、自分の人生だと受け入れた?)
その心(命?)ファンが聴いたものから完成して(生まれて)いく
以前藤くんが、曲は初めて人(ファン)に聴いてもらって完成するって言っていたことから考えてみました。
愛されなかった量産型は才能(神様のギフト(愛)的な)なんてない自分藤くん自信を指していると思いました。(才能ないとは到底思えないですけど)
割と辻褄はあっているかと思いますので、一つの答えとして長文失礼いたしました。
乱文過ぎて伝わらないかもしれないので補足を・・・
旗は目的地を指していて自分の旗は理想の自分になるゴール(目的地かと)。
曲名のButterflyはファンに羽を与えられて喜んで飛び回る様子の蝶をイメージしたように感じます。藤くんが作って聴き手が聴いて完成させた唄が蝶ですね。
大変興味深く読ませて頂きました。藤くんがいくように聞き手に届いて「完成」ってのはまさしくこういった考察も深めたことで、同じ歌詞でも色んな方が色んなように解釈して、その「色々」がその人にとっての「正解」であり、こうやって何か感じてもらってこそ曲を作った意味があると考えてるんだと思います。
いずれにせよ、解釈としては面白かったし納得のいくものでした。コメントありがとうございます。
量産型は変わろうとして変われなかった自分たちだと思いました
実際、そうなのかもしれませんね。これ、考察に書いてたか忘れましたけど、「愛されなかった」っていうのは誰に愛されなかったのかを考えると、もう少し見通しが良くなる気はしますね!
失礼な物言いにも関わらず早速の御返事、感謝致します。
勿論とても響きました。
そしてとても悲しい歌と感じました。
サビの主語が涙である様に、涙=叶わなかった夢、希望だと私は解釈しました。
そして涙を量産型と書かれている通り、沢山の夢が散っていっているのだと感じました。
一歩踏み込むと、量産型=数多いる人間の中のちっぽけな一人とも捉えられるのかと。
でも、一つ一つの夢は蝶が羽ばたく様に美しい事だと。
私はその様に感じました。
素敵な解釈だと思います。もちろん、その解釈が正しいかどうかなんて僕にももちろんわかりませんが、ただ不思議なもので、響いたこと、抽象的な考えって言葉にした方が上手くまとまるんですよね。それでスッキリするから僕は歌詞解釈なんてしちゃうんですね。それにしても、夢が散っているサマを「何よりも綺麗なこと」と表現したのだとすれば、たしかにこの唄は少し残酷ですね。
歌詞なんて書き手しか本当の意図は分からない。
推測での解説なんて無意味。
その曲を聞いた人にどう響くかそれだけ。
そう思いません?
おっしゃる通りです!聴き手それぞれに響き方があると思います。だからこそ、僕は響きましたけど、どうでしょうか?と書いてみました。よければ、あたなの響き方も書いてもらえればとっても嬉しいです。
そもそも聞き取った歌詞が間違えているのだから解釈もヘチマもないかと。
たしかにちゃんと発表されてから改稿してないですね。この楽曲の歌詞について、自分なりに点と点が線になった感覚があるので、内容については改めて修正させて頂きます。
もっと単純に解釈しましょう
そんな曖昧なことを彼は唄ってはいないと感じます。
ここで言う量産型とは天体観測やカルマのような単純なメロディ、大衆にウケるバンプ自身の曲のことを言います。
本当はそんな音楽では評価されたくないのに、売れてしまったが為に当時の中高生といった若者に支持される結果となりました。
冒頭のフレーズにある、内側で響く悲鳴は彼自身の憂い。
本当はあんな曲達を作りたくもなかったし、あれで評価されたくもなかった。でも売れてしまった。
彼の言うこの曲での旗とは、バンプと言ったら?の質問に真っ先に答えが出るであろう天体観測やカルマのこと。
自分自身は嫌っているのに自分自身の目印になっているのがその旗。
捨てたいのに捨てられない
消したいのに消えない消せない
でも、そんな自分自身に反抗的な想いを持ちながら、生まれ変わってもそれは自分の生まれ変わりと、ある意味悟りを開いています。
その愚直さがファンに支持される部分なのかもしれませんね。
あまりにも綺麗すぎて愛されなかった量産型
ここに全てが詰まっている気がします。
ここでの愛してくれる対象とはファン以外も含める世間一般
世間一般で音楽が好きな人及びバンプのファンではない人がバンプと言ったら?の質問には天体観測やカルマというでしょう。
それが愛されなかったということ。
バンプといったらあれでしょ?
のような単調な知見に彼は悲しみを覚えているのです。
天体観測やカルマを悪い曲と言っているわけではないです。
これらの単調なメロディ、大衆ウケの旋律だけが大きく評価され過ぎたことに彼らは悲しみを感じているということを言いたいのです。
長文乱文失礼しました。
ほほう。面白い解釈ですね。もしかしたらそうなのかもしれませんね。ただ、メロディーって観点で言えば、別に天体観測もカルマも単調ではないですけどね。素直な四つ打ちだから簡単なリズムパターンとは言えるかもしれませんが。ただ、藤くんは「曲は自分で書いたんじゃなく、曲から生まれてきてくれたんだ」的な言い回しをするから、あんまり個人的にはあんまりしっくりこないですけどね。色んな曲を知ってほしいという思いはあれど、売れてるから曲を嫌うなんてことはないんじゃないんかなーと。
感情をあまりださないで、うまく閉じ込めて生活しているけど、本当は誰かに気付いてほしい。
自分も他人も嫌いだけど、誰かに愛されたい。
自分がどんなに嫌になっても、他人にはなれないし、本当はなりたくない。
青虫がさなぎになって蝶になるみたいに、最初から全部決まっている。
おなかがすいたら、ごはんを食べること。眠くなったら寝ること。朝になって太陽にあたったら元気が出ること。ちゃんと知っている。
嬉しかったり、悲しかったり、感情を動かして生きている。
それだけで、すばらしい事なんだと、言っている気がします。
おおざっぱで、勝手な解釈だと思いますが、最初の方は自分の事を言われているようでした。そして、終盤の歌詞で救われる思いがします。
自分のことを歌っているように感じさせる藤くんのセンスって本当に凄いですよね。実は僕もこの記事を書いた時と今では解釈が変わってたりするんでまた機会があればまとめてみたいですね。
人それぞれによって歌詞をいろんな意味で感じれることは素敵ですよね。
私は、この歌詞は、涙の目線で自分のことを描いているのだと思いました。
悲しいとき、辛いときに流す涙も綺麗だけど、そんな感情のときに流す涙は愛されない。
でも、嬉しいとき、感動したときに流す涙は愛される。
涙は量産されますからね。
涙目線でこの歌詞を見たときに、しっくりくる箇所が多かったものですから。
私はそう感じました。
藤くんの歌詞は本来は生きていないものを生きているように喩えて歌うパターンが多いので、もしかしたらその解釈も妥当なのかもしれませんね。涙のふるさとなんてもともとそういう歌ですし。
納得できません。
「量産型=僕だとして」という前提がそもそもおかしい。私の考えは、真逆です。
などとコメントしてしまいましたが、大丈夫なのでしょうかここは。議論は望まれませんか?
議論は大歓迎ですし、色んな意見が聞きたいです!ただ、僕のスタンスとしては「これが正しい」なんてこれっぽっちも思ってなくて、こんな風に考えても面白いかも!みたいな感じで書いてます(そのくせ断定口調が多い気はしますが笑)。ぜひ、あなたの歌詞解釈が聞きたいです!