スピッツ「子グマ!子グマ!」の歌詞の意味は?解釈と考察!タカハシマイのコーラス参加にも注目

スピッツの「醒めない」に収録されている「子グマ!子グマ!」の歌詞についてみていきたい。

この歌はチェコのタカハシマイがコーラスで参加しており、タイトルのイメージからも「なんだか可愛らしい曲」な感じがするが、大サビはわりと壮大だし、歌詞は妙に切ないのだ。

その理由を探りながら歌詞をつぶさにみていきたい。

序盤の歌詞について

離れてしまった相手が「頭の片隅」にいて、中華まんを半分こにした日常のささやかな温度とともに思い出が残っている感じがする。
頭の片隅にしかいないということは、既に物理的には離れ離れであることを予感させる僕と君。

頭の片隅ということは、記憶の中にはいるよ、という話なんだろうけど、片隅ということは記憶の中でも「メインの記憶」ではないわけだ。

どういう間柄なのか、はっきりはしないけれど、中華まんを半分こにして食べるような間柄ではあることはわかる。

印象は友達以上恋人未満というところか?

それにしても、ここに中華まんを忍ばせる草野のセンスがすごい。

ちなみにこれは比喩というよりも、リアルな風景描写である可能性が高い。

中華まんは何を意味した言葉なのかと疑うのではなく、純粋に中華まんを半分こにしたんだなと考えてもらえればいいわけだ。

「涙がキラリ☆」の歌詞に出てくる「浴衣の袖のあたりから〜」のフレーズと通ずるものがある。(全体はメルヘンの歌詞なのに突然「リアルな風景」を入れてくるという意味で)

ちなみに、中華まんということは、この記憶は秋から冬にかけてであることを匂わせるわけだ。

ということは、今は春なのだろうか。

確かに春は出会いの季節であり、変化の季節であるわけだし。

さて、歌詞の続きをみてみよう。
冷たさのなかにもぬくもりが残っていて、相手の前進を笑顔で見送りたい気持ちがにじむ。
冬=寒い

だから、ここで「温度」の話をするのだ。

で、僕は君と離れてしまったけど、「君のことが大切」という思いが残っており、君の幸せは僕の幸せだと感じちゃうくらいの心でいることを表している。

ただし、君は駆け出すというが、どこに駆け出すのだろう。

夢の類の未来であることはわかるが、具体的にはなんだろうか。
相手からの小さな承認が何よりの支えで、夜の少し不穏な空気まで含めて、その切実さが強調されている。
トロフィーというのは君からの賞賛とか褒め言葉ということであろう。

君の「褒め言葉」が他の人のどんな言葉や名誉より嬉しいなんて僕は可愛いやつじゃないか。

おまけにそれで90年生きられるなんて、どれだけ君のことを渇望しているねん。

バイバイしたのに、そこまで言うとしたら少しストーカーの気が見えてくるけれど、大丈夫だろうか。

ちなみにサイケな夜のサイケとは、サイケデリックという意味であり、サイケデリックとは幻覚剤によってもたらされる幻覚を想起させるさま。派手な色や音楽などに対して言う言葉である。

音楽でいえば、色んな音楽がしっちゃかめっちゃかに入っている、少し不気味な感じの音楽をサイケ音楽といったりする。

サイケな夜ってことは、少し妄想がひどすぎて、視界に走馬灯のように色んな景色が見えているような感じだろうか。

その言葉に対するのが「仕事」なのだが、一体これは何を指しているのだろうか。

とりあえず、先のフレーズをみてみよう。
失敗を責めるのではなく、つまずかず進めるように静かに祈る、やさしい見送りの気持ちが出ている。
あの日の涙とは君が流した涙であり、おそらく僕と「別れる」ことになったときに流した涙であろう。

間違っていいのに、ということは、君はなにかの夢を叶えるために僕と別れることを選び、飛び出していったのだろう。

夢を叶えようとすれば失敗もあるわけで、その失敗で落ち込んだりするのだろうが、僕は「少しくらい失敗したっていいやん、ドンマイドンマイ!」みたいなニュアンスを「間違っていいのにこだわりが過ぎて」に内包しているのである。

夢を叶えることを「コケないように」と言い換える辺りがなんだか面白く、そのメルヘンのバランスがこの歌の絶妙な素晴らしさを生んでいる所以である。

ただし、君と物理的に離れた僕が君にできることは「祈ること」だけというのはなんだか切ない話である。

これだけ君のことを想っているのに。

歌詞の続きをみてみよう。

大サビ、そして最後のフレーズ

迷った子どもを荒野の子グマにたとえながら、暗闇を抜けて前へ進めと背中を押す場面として読める。
子グマとは君のことだろう。

僕から離れ、夢を目指す君はまるで荒野に放たれた子グマのようなのかもしれない。

僕は君を突き放すことなんてできないから「おいでおいで」しそうになるけど、そんなもの無視して走れというのだ。

感情と逆の指令を君に出す僕の切なさ。

まだ夢は叶っていないけど、もうすぐ暗闇を抜けられるよ、といっている。

どうにも恋人の別れにして少し爽やかすぎやしないか。
見送る側の未練と応援が最後まで同居していて、強がりながらも相手の未来を信じている締め方になっている。
最後はこんなフレーズになる。

ここで気になるのが僕と君って男と女であり、友達以上恋人未満の関係だったのだろうか、ということだ。

君=子グマ

である。

ということは、

僕=親グマ

ということだろう。

そして、そのまま図式をこの歌にはめ込んだら、そんなに難しいことを考えなくてもいいのでは?と思うわけだ。

つまり、僕は親であり、君はその子供。

子供が夢を見て旅立ち、それを見送る親の歌として解釈すれば納得がいくのではないかということだ。

だって、子供というのは自分の遺伝子が半分詰まった、まさしく「僕の分身」なのである。

だから、バイバイ僕の分身とはまさしく子供に「いってきてな」と言っているわけだ。

そうすると、なんで90年生きるなんていったのか、そして、サイケな夜の対比が「仕事じゃなく」なのかがわかるのではなかろうか。

夜にサイケな気分になっているのは仕事のせいではなくて、子供が旅立つからだ。

だから、離れた後でも、君にこっそり褒めてほしいし、がんばれ!っていってるのに、「おいでおいで」したくなったり、それなのに、成功を祈ったりしちゃうわけだ。

もっと言ってしまおう。

この歌は田舎の父親(母親)が夢のために上京する息子(娘)を見送り、エールを送るための歌なのだ。

親グマが両親を指すと読むなら、男女の声が重なる必然性も見えてくる。

そして、この曲を親目線の歌と読むなら、タカハシマイの声がその解釈を補強しているようにも思える。

ってか、草野さんの歌声って若々しいから、親目線の歌だと読むと少し意外でもある。

なのに、このみずみずしさ。

すごい。