スピッツ「涙がキラリ☆」の歌詞解釈。草野政宗の歌詞から意味

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草野正宗はクリスマスより七夕の方がロマンチックだという。

理由はクリスマスは普段からリア充な人たちの記念日でしかなく、クリスマスにやることのほとんどが、その気になれば年中いつでもできる。

けれど、七夕の主役である織姫と彦星は一年でこの年しか会えないわけで、七夕の方がよっぽどか、かけがえのない日だからという持論。

さて、そんな七夕の思いを歌にしたためた名曲が1995年にリリースされた「涙がキラリ☆」である。

ロビンソンの大ヒットによりメディアにも頻繁に取り上げられることになった彼ら。

ここで売れ線の楽曲を連発して一気にその名を馳せるのが一般的な商業アーティストの努だが、スピッツは実に絶妙な曲を世に送り出してきた。

メロディーだけ聴くと確かにキャッチーなのだが、歌詞の不気味さは相変わらずなのである。

目覚めてすぐのコウモリが
飛びはじめる夕暮れに
バレないように連れ出すから
カギはあけておいてよ

最初のフレーズは正宗らしい実に叙事的なフレーズである。

映画のワンシーンを思わせるようなフレーズ。ただし、ここで注意するのはコウモリを漢字ではなくカタカナにしているところだ。

これは蝙蝠という言葉が漢字表記だと難しいからカタカナにしたのではなく、これはあくまでも比喩であることを伝えるためのメッセージである。

草野の歌詞の特徴として、カタカナの場合は「ここは比喩です。字面通りに受け取らないでください」とメッセージを発することがよくある。

ここもそう捉えて問題ないだろう。

コウモリはここでは比喩で、主人公の男性を匂わすわけだが、夕暮れなのに、目覚めてすぐとは一体どれほど爆睡していたのだと言いたくなる。

バレないようにのクダリもポイントとしてカギをカタカナを表記しているところが挙げられる。

これも鍵ではないということだ。

つまり、箱入り娘が親に内緒でお家からあなたを連れ出すから窓の鍵は開けといてねーみたいな感じではないということだ。

おそらくばれないように、のバレもカタカナなところからここに対しても意味のはぐらかしが生じている。

おそらくこのフレーズは心の比喩であり、知らないうちにあなたを恋に落とすから警戒しないで僕とデートしてね、みたいなニュアンスではないかと察する。

君の記憶の片隅に居座ることを今決めたから
弱気なままのまなざしで
夜が明けるまで見つめているよ

ここはわりと字面通りの歌詞なのだが、弱気なままのまなざしである理由がここには明記されていない。

また、君を惚れさせるという言い方を君の記憶の片隅に居座るという比喩に選んだのは、コウモリに引っ張られてのことだろう。

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サビについて

そして、サビの歌詞へと進む。

同じ涙がキラリ 俺が天使だったなら
星を待っている二人 切なさにキュッとなる
心と心をつないでる かすかな光

ここは七夕にしか会えない織姫と彦星の運命をそのまま歌詞にしているようなフレーズ。

この日にしか会えない切なさを見事に言い表したフレーズになっているわけだが、ここで突如登場してきた「俺」とは一体何者なのか。

俺=コウモリなのか、そもそも彦星=コウモリなのか。ここにきて人物関係に不安を覚え始める。次の歌詞をみてみよう。

浴衣の袖のあたりから漂う夏の景色
浮かんで消えるガイコツが鳴らすよ 恋のリズムここの歌詞

最初のフレーズにはカタカナがない。

そのため、これは比喩ではなく現実と捉えるべきだ。

そうなると、コウモリと女の子は浴衣でデート(おそらくはお祭り)していると思われる。

夏の夜の浴衣デートなのだ。

君の記憶の片隅に居座ることまで決めたコウモリだが、様子がおかしい。

浮かんで消えるガイコツというのはおそらくこの恋愛が順風満帆なものではないことの示唆なのであろう。

彼女は笑っているが、本当は楽しそうではないからなのかもしれないし、付き合いたいけど、上手くは付き合えなさそうなのかもしれない。

あるいは付き合っているけれども、この恋に終わりが見え始めたのかもしれない。

確定的となる次のフレーズ。

映し出された思い出はみな幻に変わるのに
何も知らないこの惑星は
世界をのせて まわっているよ

変わったではなく、変わるのになのがポイント。

そして、惑星という言葉をトリガーにして再び、話は七夕へと戻る。

コウモリと俺は別の人なのであろう。

そして、俺とコウモリは同じ涙をキラリとさせる。

おそらく浴衣デートに誘ったコウモリは女の子に振られてしまうのだ。俺はそれを見て、一緒に泣く。

本当はちょっと触りたい 南風やってこい

このフレーズはおれとコウモリの距離感を言い表しているのではないか。つまり、俺とは彦星であり、彦星は織姫に会いに行こうとしている。彦星は織姫という彼女がいるが、コウモリは相手がいなくなってしまったのだ。

だからおれは二度と戻らないこの時を焼き付けながら、切なさにキュッとなるのである。

というのはあくまでも仮説であるが、カタカナに込めた比喩の可能性と、人物の位置関係に含みを持たせる表現をここまで巧みに行うのは草野正宗ならでは。ひと縄筋ではいかないのは彼の技である。

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