「優しいあの子」と「悪役」の繋がりについて

個人的な話をさせていただくと、一時期、スピッツ熱が冷めていた。

具体的に言うと、「とげまる」「小さな生き物」期のスピッツはそこまで聴いていなかったのだ。

少なくとも、昔ほどの関心はなくなってしまっていた。

このままだったら、スピッツを聴かなくなってしまうかも。そんなことすら思ってしまうほどの下り方だった。

その理由をここでツラツラ書くつもりはないけれど、自分にとってのスピッツがそうなっていたことは確かだったのだ。

みなとから変わったスピッツ

事態が急変したのは、「みなと」をリリースしたくらいのタイミング。

というか、「みなと」が自分のなかで久しぶりにスマッシュヒットしたのだ。

スピッツの持つメ切なさと美しさが見事にパッケージされた感じで、歌詞においてもメロディーにおいてもサウンドにおいても自分のツボだった。

その後に続く「醒めない」というアルバムがこれまた良くて、一度冷め切っていたスピッツ熱が、再びぶり返したのだった。

で。

2019年にリリースされた「優しいあの子」と「悪役」も、そんな今のスピッツの魅力がこれでもかと詰まった快作だと思う。

この記事では、なぜこの曲を快作と思うのか?というところに焦点を当てながら書き進めていきたい。

優しいあの子の話

そもそも、この歌はNHKの連続テレビ小説「なつぞら」のために書き下ろされた歌。

この曲を作るために、草野マサムネは北海道の地に何度も足を運んだそうな(FM802のなんかの番組でDJさんがそう言ってました)。

そのため、この歌について語るならば、ある程度は「なつぞら」の話を踏まえながら語る必要があるんだろうけど、生憎、僕はそのドラマを観ていない。

この記事では、そことは切り離して書かせてもらえたら幸いである。

この歌のモチーフは、「みなと」と通ずるものがあって、ベースにあるのは<もう会えなくなった人に向けて送る歌>。

そういうニュアンスが強いように感じる。

最後のサビにふと挟まれる「日なたでまた会えるなら」のフレーズが、その予感をどことなく強くさせる。

この歌がポイントなのは、「優しいあの子」に対して、自分と一緒にその先を行こうと語りかけるのではなく、「教えたい」と言ってみせるところ。

おそらく、きっと自分と一緒に行くことはできないから、こういう言い方をするのだと思う。

ただし、「あの子」という言い方からもわかる通り、この歌の二人称はかなり限定的な立ち位置にしている。

君でもなく、あなたでもなく、あの子なのだ。

ここに必然的な意味があるように感じる。

おそらく、語り手は親のような立場であり、子どもに対して投げかけるように言葉を紡いでいるのではないか?

それを示すかのごとく、最初のフレーズは「重い扉を押し開けたら 暗い道が続いている」。

人生の先輩として日々を生きてきたからこそ、こういうことが言えるんだろうなーなんて思うのだ。

どれだけ頑張って生きてみても、簡単には光は現れない。人生がそういう過酷さであることを、この主人公は「既に」知っているのだ。

けれど、その後、このようにも言葉を紡ぐ。

「めげずに歩いたその先に 知らなかった世界」

この主人公は<優しい>あの子にとって、この世界は生きにくいものであることを知っている。

時にその事実に絶望してしまうこともあるかもしれない。

でも、それは決して捨てたものじゃないんだよということを、人生の先輩である主人公はあの子に教えているように感じる。

メンバー全員が50歳を越えたスピッツだからこその視座だと思うし、単に頑張れよとか、背中を押すわけでも、単に痛みに寄り添うだけでもない、本当の意味での<優しさ>が、この歌には宿っている。

で。

もっと言えば。

この歌に出てくる<優しいあの子>とは、スピッツ自身の、昔の自分なのではないか?

昔に自分に向けての捧げた、そんな歌てはないか?という感じたりするのだ。

というのも、一番に出てくる「氷を散らす風すら 味方にもできるんだなあ」とか、二番に出てくる「芽吹きを待つ仲間が 麓にも生きていたんだなあ」は、まるで自分自身に語りかけている言葉のように見える。

でも、そのフレーズは、最終的に<優しいあの子>に言いたかった言葉に収斂していく。

自分自身に対して投げている言葉なのに、優しいあの子に集約されていくところに、微妙な違和感を覚えた。

その違和感を一本の筋で繋げるのが、この説。

「優しいあの子」は、ピュアだった頃の自分自身という説だ。

だから、この歌は代入可能な「君」でも「あなた」でもなく、限定的な「あの子」なのではないか?

実際に「優しいあの子」の代わりに「昔の自分たち」という言葉を代入しても、綺麗に意味が通ずる。

しかも、だ。

この歌に出てくる、目の前に広がる大空は<丸い>と形容している。

丸いというモチーフはスピッツの歌詞でよく出てくるんだけど、このイメージは平たくいえば、起点も終わりもない繋がりを意味した言葉となる。

今いる自分と優しいあの子は、同じ円の中で結ばれた存在だからこそ、空は「丸い」のではないか?

そんなことを思うのだ。

もちろん、本当の解釈は違うのかもしれないし、前提としてこの歌はドラマのために書き下ろされた歌なのだから、ドラマを無視した解釈は野暮なのかもしれない。

けれど、ドラマ主題歌でありながらも、自身のことを歌っているように感じる歌詞構築そのものに、僕はスピッツの真髄を見たし、単なるオーダーに応えただけのドラマ主題歌ではないからこそ、この歌には独特の魅力が満ち溢れているのだ。

星野源の「アイデア」なんかもそうだけど、本当に作家性のあるアーティストは、タイアップソングだからこそ、自身のアイデンティティに通ずるものを歌うことができる。

スピッツの「優しいあの子」にも同じものを感じたというわけだ。

サウンドの話

この歌は、メロディーやリズム割も面白い。

まず、この歌の構成をメロ部分とサビ部分の構成に分けるのだとしたら、メロ部分はギターもドラムも跳ねたリズムをキープしている。

ギターは音を鳴らした後にすぐにミュートして、「ちゃ、ちゃ、ちゃ、」という音を響かせる。

ドラムもそんなギターに合わせて、陽気にメロディーを奏でる。

で、一般的な楽曲ならこの陽気なリズムのままサビに突入しがちだが、スピッツはここでリズムパターン変える。

というか、人によっては「これ?サビじゃなくてBメロじゃね?」っていうくらい、さらっとサビに入る。

サビの最後に回収する「ルールールー」という言葉が、リズムが変わった始めからバックコーラスで流れているので、たぶんここからがサビなんだと思う。

言いたいのは、この捻くれっぷりの凄さである。

J-POPの基本としてあるのは、サビをいかに盛り上げるかである。

盛り上げ要素を強めるため、メロとサビの間にちょっとした間を作ったり、サビで一気に音圧を上げるパターンが常套句になっているなか、スピッツはそんなしゃらくせえ真似は一切しない。

たぶん、初めて聴いた時だと「え??サビどこ??」ってなるくらい、さらっとサビに突入して、さらっとサビが終わる。

普通のアーティストがこんなことやったら違和感まみれになる。

スピッツだからこそできる芸当だし、スピッツほどメロディーが洗練されているから聴けるものになっているのだと思う。

挙句、一番のキモとなるはずのサビのラストセンテンスでは、音数を減らすという構築までしているわけで。

NHKの連続テレビ小説の主題歌という、超大きな場で、こんな歌をさらっと作り、納品できるのはスピッツだけだと思う。

本当にすごい。

それを超える凄さの悪役

今回のスピッツのシングル、何が良いって、A面は「優しいあの子」という柔軟剤のような手触りの歌なのに、そのカップリングは「悪役」はタイトルもなかなか、激しくてヘビーというそのギャップ。

このシングルにスピッツの魅力の全てが詰まっていると言える所以は、そこなのである。

「悪役」は誰が聴いても、ヘビーでゴリゴリなサウンドである。

スピッツの場合、セルフでプロデュースすると、サウンドがゴリゴリになりがちなのだが、「悪役」も見事にそうなっている。

バンドとしてすっぴんのスピッツが、そこにある。

また、ドラムのスネアの打ち方にも味があって、途中までは一定間隔で音をうつのに、時たま、ダダダと連続して音をうつ(聴いてもらったらわかると思う)。

こういうところにも、ロックな匂いを感じる。

なんとなくエロさを感じさせる歌詞も良い。

狙ったのか狙ってないのかはわからないが、「果実」とか「ぶち込んで」とか「キメる」(ここがカタカナ表記がすごく良い)とか、どことなくエロさを感じさせる単語がいくつも登場していて、その塩梅が良いのだ。

あと、この歌の二人称は「君」なんだけど、その君に対してわりとドSな態度で示してくるのも良い。

君に問いかけるときの語尾が「ぜ」になっているところも、グッとくるのだ。

「優しいあの子」が「みなと」ひ通ずる歌なのだとすれば、「悪役」は「醒めない」や「1987→」に通ずる歌である(そしておそらく、歌のテーマも同じだと思う)。

二つの楽曲の注目ポイント

で、「悪役」を聴いて思ったのは、サビの「い」の音である。

「うれしい時も 悲しい時も」の「い」の音がすごく印象に残る。

また、「優しいあの子」でも「優しい」や「教えたい」という「い」の母音が印象に残る。

最近のロックバンドの歌はメロディーを詰め込みがちで、そのゆとりのなさこそが、この歌で言うところの「優しくない世界」に通ずる。

けれど、スピッツはそんな世界にNoを突き付けるがごとく、メロディーひとつひとつを綺麗に聴かせる。

その証拠に、ほとんどの言葉の母音を大切にして発音している。

だからこそ、「い」の音が、ここまで象徴的に残るのである。

音楽シーンだけでみても、今のシーンって生きにくい世界になっているんだけれど、それにただ絶望するだけでもないんだよという道を示しつつ、自分がシーンにおける「悪役」になって、リスナーという君をHAPPYな終わりに誘う。

そんなスピッツの心意気を、この2作を通じて感じたのだった。

まさしく、今のスピッツのモードが反映されたメッセージソングのように僕は思えたのだ。

まとめ

とにかく言いたいのは、スピッツの今作には、スピッツの魅力が全て詰まっているということ。

そして、この2作を通じて聴けば、「みなと」以降のスピッツのメッセージが全て凝縮しているのだということ。

50歳を超えてもなお、爽やかさとダークさの両方に磨きをかけるスピッツ。

本当に尊い存在だと思う。

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