ライブの尊さ、年々上がっている件
最近ってガジェットまわりのニュースをみると、やれAIだなんだと話題になっている。
自分の本業でもAIツールをどう使うか?みたいな課題はわりとあって、WEBページのコーディングとかだと、AIに質問投げると、わりと精度の良いコードを返してくれるので、そういう意味では便利になった部分も大きい・・・。
けれど、結局ツールの進化と理解に追いつくために、1日あたりの稼働時間は別に変わっていないみたいな現象があって、楽をするはずが結局時間を食っているみたいな謎現象が起きつつある昨今。
ただクリエイティブまわりにおいては「クリエイティブとはなんぞや」みたいな命題と向き合う部分は日に日に大きくなっている印象。
過去の偉人たちのデータを学習させて出力したコピー的な何かをもって「これは俺が作ったものだぞ!」と言い張る世界線に、何とも言えないものを覚えてしまったりする次第。
ただね、ある種のクリエイティブのハードルが下がれば下がるほど、生物の優位性って逆に上がるよなーという話もある。
AIがどれだけ人が作ったものに似せた何かを作ったとしても、人が作ったものとの隔たりにはある種の壁があるというか。
例えばだけど、実写に似たビジュアルを出力する際、写真を使えば一発という話があるが、人が時間かけて書いた絵の魅力が下がるかと言えばそんなことはない。
カメラにはカメラの良さがあるが、時間をかけて書いた絵には時間をかけてかいた絵の良さがあるし、カメラがあるからこそ、逆に絵の価値が上がっていっているみたいな話もあるわけで。
音楽においても同じことで、あたかも人が弾いたようなサウンドを機械とかツールで作ることができる、という時代においても、だからこそ生の人が作った音の迫力とか、微妙なズレとか、そういうのも込み込みで、そこの優位性って一切失っていないというか、むしろ「人が時間をかけて作ったもの」の価値は逆に上がっている気がする。
確かに半端なものであれば別にAIで作ったもので十分、という話はある。
でも、半端なものを超えたマジもんのアウトプットの前では、仮にまったく似せるものができるような時代になったとしても、その壁は圧倒的に大きく、生であることの迫力が消えることはない。
だってさ、仮にライブを別の空間で、全く同じ迫力で楽しめるようになったとして、それでもやっぱり現地に行かなきゃ味わえない高揚感ってあるわけで。
だから、ネトフリで無料で見れようが、映画館でライブビューイングできようが、他の何かで現地には行かない楽しみ方ができようが、現地にいく喜びや感動そのものが代替されることはないことをつくづく実感している日々。
そういう意味で、AIが普及している今、逆にライブの尊さってマジで上がっているよなーと感じる自分がいる。
しかも、ライブって、上手いには上手いの凄さがあるし、音源を再現していない場合には音源を再現していないなりの凄まじさがあるから複雑なのだ。
オーディエンスと一体になるケースの凄さもあるし、パフォーマンスにただ魅了されるケースの凄さもあるし、この辺りはアーティストによって凄さの内容が多面化している。
ラウドもパンクもフォークもアイドルもインストもインディーズもメジャーも、凄いの内容は違うにしても、一流のパフォーマンスをするアーティストのライブにしか圧倒的な高揚感は絶対的という事実。
なんだかんだで、SNSでバズったアーティストの多くも、ふたを開けてライブをやるととんでもない迫力だったケースしかないしね。
まとめに替えて
そういう意味で、音楽においては技術が変わることによる変化はあるにしても、ライブの尊さは今後も変わらないんだろうなーという予感をひしひしと感じる。
そんな夜の、そんな胸中。