ライブのルールやマナーの”正解”を考えてみた
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よくライブまわりでは起こる論争のひとつとして、”ライブの楽しみ方の差異”が挙げられる。例えば、ロックバンドのライブならモッシュとかダイブとかはやってなんぼでしょ、という界隈もいれば、主催者がモッシュやダイブを禁止しているならやるべきではない、ルールが何よりも優先されるべきことで、これをきちんと守りましょう、という人もいて、両者でばちばちばちになることがある。
特にこの「主催者のルール」というのが絶妙で、主催者によってそのルールの温度感が違うことが多い。例えば、ロッキン系のフェスだと、過去に事故が起こった経緯からも「ダイブ・モッシュの禁止のルール」はかなり厳重に運用しているし、ルール整備も”ガチ”である。一方で、主催者によってはそのルールはあくまでも建前であり、高揚感があがってきたらそういうルールは破っても仕方ないよね!という温度感で、そのルールを掲げているケースもある。この辺りは、どういう文化に浸った人が、どういう温度感でそのルールを掲げているのか、によって変わってくるし、かなり長いことライブを嗜んできた人なら、「ここはガチ」「ここは建前」はまあある程度はわかるんだけど、そんな言明されていないことを汲み取るなんて大変な話だし、新しくライブに遊びにきた人たちがその全てを把握するなんて大変な話だし、知らないし、という話ではある。
とはいえ、イベントごとにルールのルールを決めることはできるのは主催者だし、ワンマンライブならそのアーティストが決めることだし、最終の最終はそういう立場の人の声を尊重する、というのが最適解にはなるんだろうなーと思う。かつ、イベントの場合は「自分はこういうマインドでイベントをやっています」を言明して、その想いを了解したうえでバンドは出演しているはずで、多くのバンドはそれを踏まえて、そういうチューニングをした上でライブをやっているとは思うので、その辺も汲み取って、ケースバイケースの盛り上がり方をするのが「然るべき対応」なのかなーと思ったりする。
まあ、書けば書くほどハードな話になるし、身もふたもない言い方になってしまうのでアレだけど。とはいえ、多くの主催者や演者は、場にいる人がハッピーな気持ちになるようにライブになっているとは思っていて、自分の信条を大切にしつつも、それぞれがハッピーになる形で収まってくれたら・・・という想いはあるはずとは思っている次第。
まあ、それは置いといて、言明されていないけれど本当に守るべきものをマナーと言い、とりあえず言明されているがガチ具合はイベントによって変わるものをルールと表現されがちなライブの界隈においての、ルールの意味合いを一度ここで考えてみたい。
ここで参照したいのが、ルソーの『社会契約論』である。
ルソー・・・誰???
そう思う方もいるかもしれないが、社会の教科書とかに出てくるタイプの、昔の哲学者だ。
こいつが執筆した有名な著作のひとつに『社会契約論』というものがある。社会とかのテストにも出てくるタイプの著作で、ああ・・・学校で習ったやつね、と思う方もいるかもしれない。
この著作の中で、「社会」とか「一般意志」という記述があるんだけど、要は自分はあなたに暴力を振るわないから、あなたもぼくに暴力を振るわないようにしてね、その代わり、その暴力は1箇所に集中させて管理しよう、という契約を全員で結ぶことで、社会を作るというような記述がある。
自分が生きている社会に置き換えていえば、殺し合いOKな世界だったら、誰もが安心して平和に生きていくことができず、この世界は殺伐として文明も秩序もあったものじゃなくなるので、俺はあなたに危害を食わないから、君もわたしには危害を加えないようにしましょう、ということを決めて、暴力=取り締まることができる権力を持った場所=警察に管理してもらいましょ、みたいな感じとなる。
仮にだけど、自分がその自由を行使するとき、他人もその自由を行使することになる。それが暴力であれば、「自分が好きなだけ誰でも殴れる」という自由を行使した場合、「自分も誰からか好きなだけ殴られる」というリスクを常に抱えこないといけなくなるという不自由を抱え込む。そのため、不自由になるルールを設けることで、自由を確保することにしたというような塩梅。
ことライブにおいても、モッシュやダイブをするという自由はあるが、この自由は誰かの不自由によって成り立つものではある。かつ、何でもかんでも自由になった先で行き着くのは、力の強いものだけが自由を謳歌することができて、力の弱い者がどんどん不自由を強いられるという現実である。
モッシュやダイブの話でいえば、ガタイの良いやつはそんな環境でも自由をつかみ取れるが、めっちゃ身長が小さい人とか、めっちゃこがらな人は少なくとも、ガタイの良い人よりは自由を謳歌することが難しくなる状況が生まれやすくなる。
自由を標榜する場合、そういう状態が生まれる。
なので、みんな等しくある程度の自由を謳歌してもらうと考えると、ルールの整備が必要となってきて、そういうマインドでライブをやるバンドの場合は、「自由」の部分よりも「ルール」の方に重きを置いたアナウンスを行うことになる。
また、ダイブやモッシュを奨励しているバンドであっても、本質的には「力の強いものだけが自由を謳歌できる」ようにしたいとは思っておらず、だからこそ、自由を尊重できるようにするため、マナーの大切さを訴えかけることになる。
世にある自由の多くが、文字通り自由を謳歌するとカオスになってしまうため、人の良心に依拠したマナーを作ることで、その自由を担保できるようにしている。そして、マナーではどうにもなくなるとルールを設けてしまい、場合によっては法律や条例で明言されて、暴力的な部分は別の組織で管理される・・・という状態が生まれるわけだ。
一度、そういう風になってしまったら、そこから自由を引き戻すのはとても難しい。
だからこそ、マナーの存在がとても大切になってくる。そういう尊さを知っているからこそ、ダイブやモッシュの文化を大切にするバンドは、ルールは破ってもいいけど、マナーは絶対に守れという声をあげるケースが多い。そんな風に感じる。
結局のところ、こういう話をした場合、「これが正解」というのはないと思っている。いや、理想は演者と観客の持っている文化が一致していること、一致している人だけが参加するようなことであり、これが毎回達成できていたら、たぶんそういう類のトラブルはなくなるのだと思う。
とはいえ、それが良いことなのかは別の話だし、音楽の場においては価値観が違う人を排斥するよりは、「違う文化コードを持っている人たちも、お互いを認め合って、より良い場を作り上げる」というマインドの方が、正義により近いのかなーと自分的には思ってしまう。
まとめに代えて
SNSによって、色んな価値観が可視化される中で、主催者や演者ごとに思うこともあるとは思う。
そういう中でも、
・興行的に継続性を持たせるには、どんどん新規の人の人に来てもらう必要がある
・でも、そうなると、色んな文化コードを持つ人が出てくる
・場合によっては、相反する文化コードを持つ人が出てくる
・そうなると、今の枠組みでは「全員がピースフル」の実現の難易度が上がる
そういう板挟みが生まれるとは思うが、それでも、各々「折れたくない部分」はあって、そのうえで己の理想を追求している今のフェーズがあるのかなーと思う自分。
ここで何かの結論を出すわけではないけれど、2024年、少しでもライブシーンが良い意味で盛り上がったらいいなーとそんなことを切に感じている、そんな今の気持ち。
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