エレファントカシマシ、2025年に聴いてもパワフルすぎる件

気がつくと10年くらい音楽ブログを運営しているんだけど、振り返ってみると「聴いているのに題材にしていないバンド」っていくつかある。

書こうと思うんだけど、自分なんかが安易に書いてもいいものか、とスルーして今に至っているバンドもいくつかいるわけだ。

そのバンドのひとつに挙げられるのが、エレファントカシマシ。

エレファントカシマシも、決してコアなファンというほどじっくり聴いてきたわけではないが、新譜がリリースされるたびに作品を聴いてきた、くらいの距離感でずっとその音楽に触れてきた。

キャリアが長いアーティストであり、個々の思い入れだって当然強いはず。

いまさら自分なんかが語るのもおこがましいということで、題材としてスルーしてきたんだけど、一度くらい言葉にしてもいいのではないか?

そんな気分になってきたので、このタイミングで、自分が思うエレファントカシマシの魅力を言葉にしてみたいと思う。

本編

“人”がある音楽

話は変わるが、M-1とかお笑いの論評を聞いていると、「人が見えるかどうか」を大事な基準にしている人がいる。

この人だからこその面白さが滲み出ていたり、ある種のキャラクター性がパフォーマンスに落とし込まれているか、という視点。

漫才の場合、単に台本として面白いだけでは100点にならない。

この二人の”立ち話”だからこそ笑えるし、面白いし、引き込まれる。

そういうものを求められがちだ。

昔のM-1グランプリで言えば、ブラックマヨネーズやチュートリアルの漫才は、まさしく人が見えた漫才だったように思うし、2024年のM-1グランプリで言うと、バッテリィズの漫才はそういう視点で語られるものが多かったように思う。

同じ台本で漫才をしたとしても、他の人がやるとこの爆発力にはならない。

それは台本の面白さに、人が乗っかっているから。

そして、この二人がこのやり取りをするからこそ、リアルな言葉の応酬になるし、そのネタからその人の人となりもなんとなく見えるという面白さもあるわけだ。

音楽においても、この「人が見えるかどうか」は、けっこう自分的に大切だと思う。

というのも、近年ってアマチュアのレベルも上がってきた。

だから、

上手い歌を歌う

とか

上手い演奏をする

というレベルだって、わりとインターネット上でもごろごろといる。アウトプットされた音楽に対して、「良い音楽だね」と声をかけたくなる音楽も多い。

でも、それだけだと「いいじゃん」になっても、何度も聴きたくなる、にはなりづらい。この「何度も聴きたくなる」「他の作品も聴きたくなる」のフェーズに踏み込む上で、重要な要素のひとつが”人が見える”だと思っている。

作品の中から、この人ってこういう考えだったり価値観を持っている人なのかも、そういうのが見える方がワクワクする。

そして、連作で作品を聴く中で、その個性の輪郭がはっきりしてくる、そういうアーティストの音楽が、ワクワクしやすい。

そう考えた時、エレファントカシマシの音楽は、あまりにも人が見える音楽だよなーと感じた。

フロントマンである宮本浩次の生き様が、そのまま見えてくるような、それくらいの距離感で、エレファントカシマシの音楽って響いてくる。

だから、良いのだ。

もちろん、この作品から見える”人”というのは、あくまでもアーティストが持つ側面のひとつではあると思うけれど、でも、アーティストが持つ核と密接に結びついた作品性であったように思うわけだ。

こういうアウトプットの積み重ねをしていることは単純に凄い。

もちろん、どんなバンドだって、自分の考えを作品に投影させながら作品は作っていると思うが、プロとして作品をリリースする以上、ある程度は社会性を持つことも必要となる。

時にそれは「売れ線にする」みたいな言葉で表現されることもあるわけだが、外野から色んなエッセンスを組み込むことで、傍目からは”人”が見えづらくなることがある。

漫才の話でいえば、自分の個性よりも、M-1で受けることや決勝にいくことを優先するみたいな話。

職業としてやる以上、オーディエンスから求めるものに応える姿勢は重要となるが、「誰の」声に応えるかがぶれてしまうと、やはり”人”という部分は薄まってしまうと思う。

バンドにおいては「ロックではなく、J-POPじゃん」みたいな揶揄のされ方をすることもあるわけだが、ロック的であることは、作品における”人”がちゃんと際立っているのか?という視点で汲み取ることもできる。

話は長くなったが、エレファントカシマシは、今振り返って聴いても、やはり人が際立っている。

ちゃんと言語化できるかどうは別にして、多くの人は、エレファントカシマシはすぐに宮本浩次と結びつくし、なんとなく宮本浩次ってこんな人というイメージを持っているはず。

それは作品ごとにブレない人を投影してきたから。

そんな風になる思う。

それは音楽ジャンルが統一しているからだし、ボーカルの響かせが統一しているからだし、情感込めたボーカルが際立っているからだし、歌のテーマや歌の中で使われるワードにある種の統一性があるからだと思う。

バンドとしての”生き様”が見えること

エレファントカシマシといえば、宮本浩次のワンマンバンド、という捉え方をしている人も多いかもしれない。

確かに宮本浩次の作家性の存在が大きいことは確かだ。

でも、それ以上に宮本浩次の作家性をバンドが色んなスケールで汲み取り、そこからブレることなく音を鳴らし続けてきたバンドそのものの存在も大きいように思う。

石森敏行の骨太でゴリッとしたギターサウンドとストロークは、そんな象徴のひとつだと思う。

このギターサウンドひとつとっても、エレファントカシマシの人を呼び起こすトリガーになっているように思うし。

渋くてパワフルで情感がこもっているボーカルに対して、このゴツゴツでパワフルなボーカルが組み合わさるからこその”人”であるというか。

当然なら楽器って色んな音に変化させることができる。

無限にできるアプローチの中で、どの楽曲もその楽曲に対して、こうあってほしいのアレンジそのままであるというか。

このバンドとしての解像度って素晴らしいと思うし、エレファントカシマシの存在感がブレずに際立っている最大の部分であるように感じる。

高緑成治というベースがいて、冨永義之というドラムがいて、音を鳴らすからこそだし、宮本浩次が宮本浩次のこのパフォーマンスを引き出しているのは、エレファントカシマシというバンドの中で存在しているからこそであるようにも思う。

これは同じキャリアくらいのどのバンドをみていても思うことだが、フロントマンの才能は確かに素晴らしいし、それがあるからこその部分は大きいけれど、その才能がどこまでも圧倒的な煌めきを放っているのは、このバンドメンバーだからなんだろうなあと感じる瞬間が多い。

それは作品に音として反映される部分のものもあるし、そうじゃない部分のものにもきっと宿っている。

そんな風に思うわけだ。

特に、エレファントカシマシにおいては活動休止にならないといけないフェーズがあり、そこから圧巻の復活を遂げたフェーズも見てきているからこそ、そんなことを余計に思うのだ。

個人的に好きな『RAINBOW』というアルバム

ところで、自分は『RAINBOW』がめっちゃ好きだ。

何かのライブで、初めて「RAINBOW」を聴いたときに震えたものである。

この楽曲をリリースしたときでも、すでに20年以上のキャリアを積んだバンドだったわけで、色んな経験を経てきたバンドの、豪速球のようなパンチ力のあるエネルギッシュなロックナンバーが、あまりにもぐさりと自分の感覚にぶっ刺さったのである。

「すげぇ」とか「でかい」とかのワードに対する、ボーカルの感情の乗り方が良いし、こんなにも「俺」という一人称が似合うボーカルも、そうはないなあと感じたのである。

しかもボーカルのファルセットの使い方も素晴らしいし、ボーカルの伸び仕方や抑揚の付け方も見事。

パワフルさに注目されることが多い宮本浩次のボーカルだが、技術的な素晴らしさも随所に体感して、とにかく引き込まれることになるのだ。

アグレシッブなバンドサウンドが際立つからこそ、鍵盤の音を鳴らしビート感を落ち着かせる流れも秀逸だし、躍動しまくるところでのドラムやベースの暴れ方も絶妙だし、「おおお、かっけぇ・・・」ってなったことを昨日のように覚えている。

まとめに替えて

エレファントカシマシの場合、キャリアが長すぎるので、その全てを言葉にするととんでもない量になるので、自分的に思う今言いたいことにスポットを当てた、こんな形で言葉にしてみた。

今聴いても、どの歌も色褪せることなく、バリバリに輝いているし、最近の楽曲も昔と比べてどうのということがなく、同じ躍動感を解き放っているのが、マジで凄い。

つくづく、エレファントカシマシって凄いバンドだなあと感じる。

そんなことをふいに感じた、そんな一日。

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