バンドが続くという尊さって、ある種奇跡だよなと感じる夜
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当たり前だけど、どんなモノにだって終わりはある。
ずっと続きそうなものでも、どんなに当たり前になっているものでも、いつかは終わりはくるはずなのだ。
でも、頭でそのことがわかっていても、いつの間にか「いつか終わりがくる」ということは忘れてしまって、当たり前のことを当たり前のことのように教授してしまう。
自分も含めて、そういう人ってきっと多いと思うのだ。
これは、バンドの活動でも言えることである。
コンスタントに活動しているときは、そのバンドが音源を出したり、ライブしたりすることを当たり前のように感じてしまう。
ツアーを発表すれば、「またツアーやん」と思うこともあるだろうし、フェスにいっぱい出ていると、「どのフェスにも出るやん」なんて思うこともある。
そこまで極端な感情は持ち得ないとしても、初めてそのバンドのライブを観た衝動は、少しずつ当たり前のものになっていく、ということはあるように思うのだ。
でも、どれだけ当たり前のように活動しているバンドだって、いつかは終わりがきてしまうときって、くる。
もちろん、永遠とメンバー交代を繰り返したら、バンド自体を継続することは不可能ではないかもしれない。
が、バンドは単なる組織ではなくて、メンバー同士の結びつきが強いチームである以上、そういう形で継続するケースってなく、どこかしらで幕を下ろすことがほとんどだと思う。
別に応援しているときから、いつも「終わること」を頭に入れる必要なんてないとは思う。
過去がどうだとか、未来がどうだとかはそういうことは本来はどうでもよくて、大事なのは”今”この瞬間だと思うから、その日にライブを観るのであれば、そのライブが一番意味のあるものだと思う。
そういう観点で言えば、終わるとか終わらないとか、そういう話はどうでもいいと思う。
でも、当たり前と思っているものは別に当たり前なんかではない。
これもまた重要な事実だとは思う。
それってとても尊くて、かけがえのないものなのである。
しかも、メンバーが足並みを揃えることで活動ができるのが”バンド”というものである以上、当たり前のように活動しているということは、ある種とても奇跡のようなものである、ということは頭の片隅にあってもいいのではないかと思う。
事情は様々であろうが、どうしても全員の足並みを揃えることが難しくなる状況って、ふとした瞬間に起こってしまうことってあるから。
そのひとつひとつがとてもかけがえのないものだからこそ、観にいくことができたその日のそのライブ一本って、とてもかけがえのないものなのである。
ということを考えたとき、当たり前になりすぎった結果、ひとつひとつのライブがなんとなく流れ作業のような楽しみ方になっているのであれば、それはもったいないことだよなーとは思う。
ひとつひとつのそれって当たり前ではなく、とてもかけがえのないものだからこそ、ひとつひとつを”全力で楽しむこと”がとても尊い意味を持つだろうから、そのように思うのである。
どんなものにだって、いつかは終わりは来る。
そして、例外的なケースはあるとはいえ、一度”終わる”の形になってしまったら、終わる前のまんまの形でそれをもう観ることはできない、という事実が、ある。
だからこそ、当たり前のように感じているものって、すごく尊いものであるということは、改めて言葉にしたいなーとついつい思ってしまったのである。
思えば、何年も音楽を聴いている中で、もう聴きたかったその音楽を生で聴くことができない、というケースはいくつもいる。
そういうバンドって、いくつも存在している。
もちろん、音源の中では変わらずにそれは輝いている。
音源やライブで手にいることができた感動の記憶のひとつひとつも、かけがえのないものとして輝いている。
でも、”もう一度、あのときのあの形を観たい”は叶えることはできない、というケースは確かにある。
こういう経験を何度かしたからこそ、当たり前のように感じることがでる尊さと、その当たり前を続けているメンバーがいる奇跡を実感するのだ。
終わってしまったバンドを思い返す、といつもそれが唐突にきたことを思い返す。
終わりというフェーズを、きちんと段階を踏んで、予告してくれるケースって、とても稀であるからだ。
本当に当然に、何の予告もなく、終わりがくるケースって大いにある。
だからこそ、続くことってある種の奇跡だと思うし、そういう尊さって大切にしておいた方がいいんだよなーと思うのである。
まとめに替えて
特定の何かがどう、という話ではない。
どんなものにだって起こる、普遍的なことだと思うから、ただそのことをきちんと噛み締め、思い直したくなった、そんな夜だったという話。
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