銀杏BOYZの紹介

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バンド好きの人って、きっと一バンドくらい「このバンドのせいで青春が狂わせられたなー」って思うバンドがいると思うのだ。

そして、ある世代にアンケートを取ると、ダントツで名前が挙がるのが銀杏BOYZだと思うのだ。

それだけカルト的な人気を放っていたわけだけど、なぜ銀杏BOYZはそのような人気を放つことになったのか。

この記事では、そういうことについて書いてみたいと思う。

銀杏BOYZの音楽性

銀杏BOYZの音楽性って一言で言ってしまえばいいパンクロックだと思う。

んだけど、それまでのパンクロックとは大きく違うところがある。

基本的に過去のパンクバンドって仮想の敵を作って、それに対して中指を突きつけるみたいなところがあったと思うのだ。

社会が悪いとか大人が悪いとか、あるいは政治がダメなんだとか、そういう外側にある大きなものに対して反抗を示し、中指を突き立ててという部分が強いように思うのだ。

けれど、銀杏BOYZは違う。

もちろん世間を賑わしたトピックを扱ったり、ギミックとして社会的にニュースになった言葉を使うことがあるけれど、本質的な反抗心は外側に向いていない。

どちらかというと、内側に向いているのだ。

というよりも、今もそうだし今の方が深刻なのかもしれないけれど、当時の日本ってとても閉塞的で、将来に希望が描けない時代だった。

でも、鬱蒼とした思いがあって、不満をぶちまけたい衝動があって、かといってそれに対して具体的に行動できるわけでもないみたいな、そういうどうしようもないもやもやがあったのだ。

そして、銀杏BOYZは、そういうみんなの心の中に抱え込むもやもやを敵にして、圧倒的な形で中指を突きつけたのである。

自分の内側に敵を見つけて、そこに対してパンクしてみせたという感じがあったのだ。

00年代のロックは内面を描きがちなんて言われるけれど、同じ内面を描くといってもそのあり方は全然違う。

例えば、BUMPは内面のダメな部分さえも肯定してみせたのだとしたら、銀杏はそこに対して反発してみせ、中指を突きつけた。

そんな衝撃があったのだ。

だからこそ、過激な言葉を歌詞にしてみせたり、秩序やメロディーを無視して叫んでみせたり、ノイズにも似た荒々しいサウンドを鳴らしまくったりしたのである。

そして、そういう身もふたもなさというか、綺麗に整えない感じに、やばさを感じた。

子どもながらに、このバンドは自分の知っているその辺のバンドと違うんだと一発で感じたのだ。

歌詞もサウンドも当時の自分の普通をことごとく破壊してみせた。

その頃に育まれつつあった音楽の秩序を全てぶち壊すような音楽だった。

だからこそ、「君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命」と「DOOR」は00年代のロックでも革命的な作品として、未だに語り継がれているのである。

でも、ここまで銀杏BOYZが語り継がれているのは、銀杏BOYZが単に破壊だけを志向したパンクロックではないというところである。

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もう少し具代的な作品の話

銀杏BOYZの作品の根底にあるのは、自分への弱い内面にパンクして、そこに中指を突きつけてみても、結局、何にも変わらず、何にもできない自分がいるという空しさなのである。

「援助交際」は銀杏BOYZの代表曲であるが、結局この歌は、何にもできない自分が顕になってしまう無力な歌である。

無力な自分は大好きなあの娘に憧れるだけで、結局何にもできないことを告発してしまい、その衝動を爆発させるだけに止まってしまう。

平和なはずなのに、未来に希望が見いだせず、現状に不満しかないのに、何にもできない自分たちを代弁するような、そんな歌だったのだ。

「夢で逢えたら」「駆け抜けて性春」も根底にあるのは、そういう不甲斐ない自分だ。

銀杏BOYZの歌ってまったくカッコよくない。

俺たちってどうしようもなくダサくて、そのダサさをどこまでも過激に、無様であったとしても全力で表現するわけだ。

究極的に飾らない姿勢を貫いたからこそ、時によってはライブで服を脱いでしまったのだろうし、表現のためには躊躇をしないところも、銀杏BOYZの圧倒的なかっこよさだった。

情けない部分も容赦なくみせつける、そういうかっこよさが銀杏にはあった。

銀杏の音楽性

銀杏BOYZはただやばい歌詞を歌っていて、すぐに全裸になるヤバイパフォーマンスをしているバンドというイメージが強いかもしれない。

でも、音楽性だって銀杏BOYZはすごかった。

「光のなかに立っていてね」がリリースされたときは衝撃で、9年ぶりの新作は、まず「まさかあの銀杏BOYZが新曲をリリースするなんて」というものだったんだけど、聴いてみたらこれは作るのに9年かかるわって思ったし、そのあとにメンバー全員が脱退してしまうことになるのと正直、納得してしまうような、満身創痍という言葉が似合うようなアルバムだった。

一般的なロックバンドの秩序とはまったく違うサウンドが展開されていて、パッと聞くとそれはノイズにしか聞こえないかもしれない。

でも、本当の意味で意味ない音が並んでいるんじゃなくて、表現したいものが全てに音に宿っているようなものがあった。

場合によっては打ち込みサウンドを使っったりするカオスさがより、銀杏の音楽をとんでもないものに消化してしまっていた。

アルバムの方向性を変えるとか、次はこういうサウンドにトライしたいんだみたいなレベルの話ではなかった。

初期の頃からあった内側に秘めた衝動が爆発している、とんでもないスケール感で音を鳴らしているような、感じたのだったのだ。

まとめ

というわけで、銀杏BOYZってなんかやばい感じのバンドでしょって意見はあるだろうし、峯田は丸くなってしまったから銀杏はもう終わったんだと思っている人もいるかもしれない。

たしかに青春のバンドでありえたとしても、今の銀杏を大絶賛している人は少ないのかもしれない。

でも、銀杏BOYZがカルト的な人気を誇っている理由は今でも語り継がれるべきだと思うし、忘れらんねえよのように、反抗する意志を示すタイプのバンドは出ているけれど、正直似ていると言われるバンドと比べれば比べるほど、銀杏の偉大さを実感するわけだ。

自分もその一人だが、銀杏に魅力されてロックの沼にズブズブ入った人は多いし、過去の名盤は今なお色あせていないと思う。

前のアルバムがリリースされたのだってもう5年ほど前。

アルバムというパッケージでどんな作品をリリースするのかは未知数。

丸くなったと言われる峯田がどんな作品を生み出すのか、実はすごく楽しみにしている。

単に内向きだった銀杏は、外側を向きつつあり、何を描くのか含めて、楽しみなのである。

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