レミオロメンの「3月9日」を聞いていたら、なんだか泣けた件
辻派、加護派に別れてしのぎを削っていたような自分たち世代には、いくつかかけられた呪いがある。キリ番ゲットで喜んでしまうとか、物語性のフラッシュをみると泣いちゃうとか。key作品で人生を学んだとか。
Skypeの終焉に涙してしまうのも、我々世代だからこその呪いのひとつかもしれない。
そんな我々が3月9日に向けて、かけられた呪い。
それが、レミオロメンをついつい欲してしまうというもの。
この歌のせいだ。
そう。2000年代にそれなりに音楽を聴いてきた若者世代の多くが、この歌に内面真改造されてしまったのだ。ついでに、カラオケに行くと調子にのって、パッション全開で「粉雪」を全力で歌ってしまうという呪いも追加されることになる。
「こなぉぁーあぁぁああああぁぁぁぁあ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ゆきぃ〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!」
なんなら、この通過儀礼をもって、人前で音程を外すことになってもやり切ることの大切さを学び、羞恥心を克服していった人もそれなりにいたとかいないとか。
話はそれた。
それくらいに、自分たち世代にとって、レミオロメンは生活であり、日常であり、人生だったのだ。
そして、また今年も3月9日が近づいている。
サブスク時代になって壊れてしまったものは多い。少なくとも、新しい音楽との出会いの密度は年々下がっている心地すらする。
それでも、こういう青春の楽曲をリアルタイムで触れることができるのは、サブスクがあるからこそ。あまりにも近い距離で、耳の中に宿る青春が横たわっている。
「3月9日」を聞き直すと、面白い歌だなあと感じる。
今でこそ、イントロなしのボーカル入りの楽曲が増えたが、「3月9日」はそういうものがデフォルトになる前から、革新的な角度でイントロをぶった斬ってボーカルで楽曲をスタートさせた。
なぁ〜がれぇ〜るきぃせぇつぅ〜のぉーまぁんなぁかでぇーっ〜♫
開始5秒で戻る青春。同時に浮かぶ堀北真希の顔。口先では卑屈になりながらも、まだまだ本音の部分ではドス黒い野望にまみれ、秘めたる闘志でたぎっていたあの日の卒業式。
フタを開けると、夢の99%は叶わぬまま、今も音楽だけはひたすら聞き続ける日々。変化した自分と対比して耳から聞こえる藤巻亮太の歌声が、あまりにもあの頃と変わってなくて、なんだか不思議と泣けてくる。卒業式も「3月9日」を聞いていた気がする。
一体俺はあれから何を卒業して、一体何から卒業されようとしているのか。
そんな気持ちにすらなる瞬間。
マジで音楽ってタイムマシーンだと思う。
21世紀の今、ドラえもんのような猫型ロボットの代わりに、 すかいらーくの外食チェーンではドラえもんの10分1しか融通のきかない、なんちゃって猫型ロボが己の食い物だけ配膳しにやってくる景色になった。ドラえもんが乗っていたようなタイムマシーンが誕生するかは甚だ怪しい。
でも、仮に本物のタイムマシーンが出来なかったとしても、自分には音楽というタイムマシーンがある。
そんな気持ちにさせくらいに、「3月9日」は我々世代に強烈なインパクトを残し、今なお記憶の片隅に存在している。「助けてドラえもん」は届かない。現実にいる猫型ロボットは最初は機嫌良く「くすぐったいにゃ」と我々に語りかけるが、やりすぎるとすぐに無表情かつ無慈悲な口調で「邪魔だにゃ」と我々をあしらうだけだ。
でも、タイムマシーンだけはちゃんとある。
音楽という名のタイムマシーンがある。
だから、すぐにあの頃に戻れる。素晴らしい記憶とも簡単に交錯できる。
「この先も 隣で そっと 微笑んで」
「3月9日」の最後の大サビに入る前、ぞくぞくする渾身のDメロの流れだ。この後に続くのは20年以上経っても、なおキラーフレーズとして残る「瞳を閉じれば あなたが まぶたのうらに いることで」のフレーズだ。
そのフレーズに合わせるように、自分も瞳を閉じる。見えたのは・・・
連日、睡眠不足で、朝から、サーバーをたてて個人で運営している、こんな中身のない記事を更新している社畜のまぶたのうらにいるのは、少し照れていて、いるだけでどれほどに強くなれるようなあなたではなかった。
アメーバみたいな、よくわからん光の残像。名前すらよくわからん、でも瞳の中でぶわわわわって動いている、やつら。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!」
あまりにも、そこはあるのは、空虚な現実だった・・・
それさえもインターネットの誰かと分かち合えるのであれば。
それは・・・
それは・・・
幸せ・・・のはず・・・