前説

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ヨルシカとしては3枚目となるオリジナル・アルバム「盗作」。

この記事では、ヨルシカの「盗作」という作品について書こうと思う。

本篇

アルバム全体について

今作も、過去2作品と同様、コンセプチャルな作品となっており、アルバム全体を通してひとつの物語を描くような構造となっている。

どういう物語なのかは、下記動画の紹介文を読んでもらうと、ある程度はわかるかと思う。

また、この作品が描く物語がどういうものなのかについては、このアルバムの初回限定版についていくる小説を読んでもらうべきだと思う。

ヨルシカの作品の楽しみ方のひとつって、先行してアップされる作品から、この物語がどういうものなのかを「考察」し、その答え合わせをするように作品を聴き、小説を読むところにあると思うのだ。

なので、ここでその物語を要約するのは微妙だと思うので、あまり触れないようにしたい(一部、物語に触れる記述もあるので、ネタバレがある人はこの記事を読まないでおいてください)。

いや、ほんとね、ヨルシカの作品が凄いのはフレーズひとつひとつの掘り下げ方なのだ。

実際、先行された歌詞にはこの物語がどういうものなのかを推測させるような言葉が丁寧にちらばっているのだ。(YouTubeの動画に歌詞もセットであげているのは、的確に考察をしてもらうためであろう)

例えば、「思想犯」のサビには「爪先立つ」というワードが差し込まれている。

これは「妻先立つ」と解釈されることができつ。

つまり、この歌の主人公はすでに妻が亡くなっていることを想像することができるわけだ(ここの答え合わせは、初回限定盤の小説を読んでもらいたい)。

あるいは、「春ひさぐ」がなぜ売春を指し示す言葉をタイトルにして、その単語を<商売音楽>のメタファーとして使い、商売音楽を蔑げすむような物語にしているのかも、小説を読むことでその輪郭がはっきりしてくる。

ヨルシカの作品が巧みなのは、アルバムだけでも物語を描ききっているが、そこに丁寧な余白を作っていること。

これにより、様々な想像をすることができるのである。

そして、その想像力を補完させたり、もっとしっかりと物語を考察したい方には、初回限定版の小説を読んで楽しむことができるという点にある。

これって、作品としての完成度が高いからこそ成立することのできる方法である。

今回のアルバムで特に凄いと思ったのは、今作はアルバムのラスト2曲がタイアップ曲であるにも関わらず、その作品もしっかりとアルバムの物語の中に組み込まれているということである。

タイアップ曲であり、独立した楽曲だと思われていた先行曲が、アルバムのラストに組み込まれると、きちんとこのアルバムが描く「結末」を担っていることに気づくわけである。

これって、本当に凄いことだと思う。

作品から浮いてもいいはずなのに、むしろ逆になっているのだ。

アルバムのための曲であることに気づいてしまうわけだ。

構想を練って、作品を作っていたからこそ成立するものだし、そういうことを華麗にやり遂げるn-bunaの構成力は、流石の一言である。

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表現力がすごすぎるsuis

ヨルシカのボーカルはsuisである。

suisの歌声における表現力のレパートリーm多すぎじゃね?と思ってしまう今作。

ヨルシカの物語って、狂気的な部分と優しさで包まれる部分の二面性を持っているけれど、そこに違和感が生じず、物語に入り込めるのはsuisの歌声が両方の感情を的確に表現しているからである。

例えば、「花に亡霊」という歌。

この歌は前半の歌声は、何かが抜け落ちたような透明感がある。

この歌は亡霊=想い出であり、夏に咲く花に想い出をみる、という歌である。

ここで指差す<想い出>が何かというところまでは書かないけれど、アルバム前半で歌われていた濁った感情が浄化されていく状態が、なんとなく声の雰囲気からもイメージできるわけである。(アルバムが描く時間軸から考えると、濁った感情に染まる前の状態という風に捉えることもできるけども)

同じように「夜行」も、suisの透明感のある歌声が際立つ作品になっている。

この優しいモードの2曲が、「幼年期、思い出の中」というインストのあとに並べられているが、実に巧みである。

逆に「朱夏期、音楽泥棒」のサントラのあとに並べられている「盗作」や「思想犯」は、suisの低い声が印象的な作品になっている。

無感情的でもあるんだけど、その奥底で感情が炸裂しているような、そんな歌声になっているのだ。

その歌声からどういう感情を読み取るのかはともかくとして、suisの歌声の表現力の高さは誰もが実感すると思うし、ヨルシカの歌が物語的なリアリティーを感じさせるのは、suisの表現力の高い歌声があるからこそだと思うのである。

つくづくn-bunaとsuisが出会ってくれて良かったと痛感する。

n-bunaが描きたかったもの

「盗作」という作品はどういう物語なのか、という解答はおそらく初回限定版に付属している小説を読めば、見えてくると思う。

他人の作品を盗用して名をはせた主人公が、なぜそういうことを行ったのか、というところも含めて、ある程度は見えてくると思うのだ。

個人的に気になるのは、n-bunaがなぜこういう作品を作ったのか、というところにある。

というのも、主人公の立ち位置や物語の内容も、「だから僕は音楽を辞めた」「エルマ」という、過去のヨルシカのアルバムと似通ったものを感じるからである。

音楽作品を作ることにある種の苦悩を覚えた人間が主人公であり、自分にとって大切な人の喪失がきっかけで、物語の歯車が大きく動き出すという点も似ている。

また、音楽に対するスタンスや、芸術的感性、あるいはアルバムの時間軸のずらし方(曲順をみてもらうとわかるが、インストが時間軸を示しているが、その時間軸がバラバラであることがわかる)といったところまで、過去の作品を踏襲したものであるように思う。

もっと言えば、「盗作」の中に前作のアルバムの主人公である「エルマ」の存在を匂わせるフレーズもあるわけだが、まあ物語的な繋がりは置いといて、今作もエンタメ性を濃くしながらもn-bunaの作家性が相当に色濃く反映されているように思うのだ。

ただし、一点過去の作品と違うところがあるとすれば、作品の批評性であろう。

というのも、「盗作」で描くテーマは相当に批評的である。

ポップ・ミュージックにおいて「パクリ」というのは問題のあるトピックとして扱われるし、「盗作」が主張する内容はけっこうセンシティブな物言いである。

思えば、ヨルシカの音楽は過去の文学作品の引用がたくさんある。

音楽的な部分だって直接的な言及はしないだろうけれど、有名ボカロPをはじめ、影響を受けた人がたくさんいるはずだと思う。

そういう背景がある中で、メッセージ性の強い歌を歌いきる。

なぜ、このタイミングで、そういう作家性を発揮したのだろうと思ってしまうのである。

「盗作」の主人公がそのままn-bunaである、とまでは言わないにしても、n-bunaが普段から思っていた言葉がそのまま歌になっているような印象を受けるところはある。

この作品は人は(ある種)過去から逃れることができないという本質と、その過去の蓄積を破壊することの美学を並列して歌っている。

この部分においても、ヨルシカに置き換えることができるように思う。

今作は過去のヨルシカ作品を踏襲した部分であるとともに、過去ヨルシカのパブリックなイメージを破壊する勢いがアルバムに込められているように感じるからだ。

ヨルシカっぽいけれど、ヨルシカっぽくない。

そういう質感をアルバム全体に感じるわけだ。

なぜここでそういう「破壊」のアルバムを生み出したのか。

人に認められたいからそうしたのか、社会性のある作品を世に投じたかったのか。

色んな想像をそこからはためかせることができるわけだ。

n-bunaにとっては、作品以外の考察はあんまり好きじゃないのかもしれないが、ヨルシカ全体の作家性も考えさせられるような、そんな広がりをこのアルバムから感じてしまうのである。

まとめ

トータルとしてまとめると、今作も捨て曲がないためアルバム全体をつるっと聴けてしまう(これは、とても凄いことである)

とにかく言葉が綺麗。

suisの表現力がえぐい。

MVの構図やCDのアートワークなど(フォントの使い方など含め)、とにかく物語を表現するこだわりが詰め込まれなくっていて、とにかく凄い。

こういう言葉に行き着く。

2020年のアルバムの中でも、トップクラスの作品ではないかと個人的に思う。

今年のヨルシカもすごい。

期待を裏切らない作品であったということは、改めて最後に記しておきたい。

関連記事:ヨルシカ「エルマ」における感想と考察

関連記事:ヨルシカ「だから僕は音楽を辞めた」のレビューと考察

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