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RADWIMPSの新曲「なんでもないや」の歌詞について書いてみたい。

※映画「君の名は。」に関するネタバレも含んでいるので、未見の方は注意してお読みください。

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この歌も「君の名は。」で使われている歌である。

本編が終わって、スタッフロールのエンディングとともに流れる歌なのだが、この歌が映画の最後にかかるということは、つまるところ野田洋次郎も映画のために書き下ろした4作のまとめ的な存在として、この歌を位置づけている可能性が高い。

となると、歌詞にもそれ相応の意味が込めれている可能性が高いわけだ。

どうなのだろうか。早速みてみよう。

作詞:野田洋次郎
作曲:野田洋次郎

もう少しだけでいい あと少しだけでいい もう少しだけでいいから
もう少しだけでいい あと少しだけでいい
もう少しだけ くっついていようか

僕と君が現在進行形でくっついていることがわかる。

けれど、そろそろ僕と君は離れなければならないことがわかる。

あと少しだけでいいから、と僕は君に懇願しているが、その様はまるで先っぽだけでいいから、と懇願している性欲まみれの男の子のようであるようなないような。そして、そんなこと一瞬だけ考えてしまうワタクシの脳みそ。

まあ、それは置いておいて、なぜ僕と君はあと少しで離れなくてはならないのだろうか。

もう少しだけでいい あと少しだけでいい もう少しだけでいいから
もう少しだけでいい あと少しだけでいい
もう少しだけくっついていようよ

先ほどと同じフレーズである。

先ほどの疑問に意味があるのかないのか。

一旦ここはスルーして、次のフレーズをみていこう。

僕らタイムフライヤー 時を駆け上がるクライマー
時のかくれんぼ はぐれっこはもういやなんだ

タイムフライヤーというのは造語である。

時間を表すタイム(time)、飛ぶとか超えるという意味を表すフライ(fly)、~する人という意味を表すイヤー(er)。

これを組み合わせて、時を超える人という意味の造語を作っているのだ。

映画をみれば、その意味はわかるだろうし、前前前世でも同じモチーフが歌わていたから、ここの意味は納得いくのではなかろうか。

そのあとに使われるのが「クライマー=登る人」という言葉だ。

僕と君には時間的な隔たりがあり、そのせいで二度と会えなくなるような危機が目の前に立ちふさがる。

その時間的な隔たりを「時のかくれんぼ」という言葉で表現し、その隔たりによってもう会えなくなってしまっていたことを「はぐれっこ」と表現するわけだが、映画では最終的にその時間の差を乗り越えて再び巡り逢うわけである。

映画での具体的な時間の差は3年だ。

一度過ぎた時間を戻すことはできないから、3年遅れている僕の方が時間を登るようにして君に追いつくのである(それによって君の運命は大きく変わり、最後のエンディングを迎えるわけだ)。

ちなみに映画のラストでは、この時間の差を階段の段差によって表現している。

あの段差によって、お互いの時間の差が埋まり、あそこで再び出会うというのがエンディングなわけだ。

次のフレーズをみてみよう。

離したりしないよ 二度と離しはしないよ
やっとこの手が 君に追いついたんだよ

この歌は僕が主語だからこそ、時間は登るものであり、君に離さないためには僕が追い付く必要があるわけだ。

この辺りは映画をみてもらって感じてもらった方が早いと思う。

君は派手なクライヤー その涙 止めてみたいな
だけど 君は拒んだ 零れるままの涙を見てわかった

クライヤーとはcryという泣くという言葉と、erという~する人を合わせた言葉であり、泣いている人という意味を指す言葉である。

ここでは、君はすごく泣き虫だよね、と言っているわけである。

おそらく嬉しいことがあっても悲しいことがあっても君はすぐに泣いてしまうのだろう。

僕はそんな涙を止めたいと言っているのだが、君はそれを拒んだのだ。

で、僕は君がなぜそれを拒んだのかの理由を、その涙をみて理解したのだという。

どう理解したのだろうか。

次のフレーズをみてみよう。

嬉しくて泣くのは 悲しくて笑うのは
君の心が 君を追い越したんだよ

ん?どういうことだろうか?

野田節が炸裂しすぎて一瞬頭の中が?になってしまうようなフレーズ。

嬉しくて泣くのはわかるけど、悲しくて笑うのはちょっと意味合いが違うのでは?というツッコミが一瞬沸き起こってしまう。

でも実際、感情が自分の肉体を超えて、思いもよらない動きをしてしまうというのはよくあることだと思う。

きっとそのときに生じた感情の高ぶりというか、凄さみたいなものを伝えたかったのだろう。

もう会わないと思っていた人との奇跡的な出会いなのである。

今、僕と対面して流している涙はそんじゃそこらの普通の涙ではないわけだ。

だから、この涙は止めるべきものではないし、止める必要もないものなのだ、と言いたいのでなかろうか。

二人の間 通り過ぎた風は どこから寂しさを運んできたの
泣いたりしたそのあとの空は やけに透き通っていたりしたんだ

J-POPの歌において「風」はやたらと仕事をする。

今回の風は「寂しさ」を運んできたらしい。

あえて寂しさの理由を風のせいにすることで、ロマンチックな雰囲気漂わせる作戦なのだと察する。

泣いたあとの空が透き通って見えるのは空が変わったのではなく、泣いた自分の気持ちが軽くなって物事の見え方が変わったからであろう。

それだけ心がすっきりしたということを表現しているフレーズである。

いつもは尖ってた父の言葉が 今日は暖かく感じました
優しさも笑顔も夢の語り方も 知らなくて全部 君を真似たよ

僕と君だけのセカイ的雰囲気を漂わせておきながら、突然「父」という存在を登場させる野田洋次郎の策略。

ここだけ敬語なのは僕が独白感を強めるためだろうか。

父が僕にどんな言葉を伝えたのかはわからないけれど、普段は疎ましく思っていた言葉も、何気なくスルーしていたことも、君と出逢ったことで大切にしなくちゃならんな、と思うようになったということだろうか。

要は心境に大きな変化が生じ、過去の様々なことを顧みるようになったということだ。

そういえば、映画ではふたりとも「母親」が不在であるように見えた。

女の子の母親は亡くなっていたし、男の子の母親は登場すらしなかった。

それが物語に直接大きな何かを与えるわけではないが、父との向き合う必要のある作り方をしていたのは、映画のひとつのテーマであったように感じる。

父というのも実は大事なキーワードであり、歌詞にもそれをに忍ばせたというわけだ。

「君を真似たよ」というフレーズがあるが、君がいたおかげで色々な経験をして、色んな感情を持つことができたよ、ということが言いたいのだろう。

君おかげで成長できた、くらいに意味合いに捉えれば分かりやすいのではなかろうか。

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続きをみてみよう。

もう少しだけでいい あと少しだけでいい もう少しだけでいいから
もう少しだけでいい あと少しだけでいい
もう少しだけ くっついていようか

僕らタイムフライヤー 時を駆け上がるクライマー
時のかくれんぼ はぐれっこはもういやなんだ

嬉しくて泣くのは 悲しくて笑うのは
君の心が 君を追い越したんだよ

この辺りは一度、でてきたフレーズである。

一旦ここはスルーしておこう。

星にまで願って 手にいれたオモチャも 部屋の隅っこに今 転がってる
叶えたい夢も 今日で100個できたよ たった一つといつか 交換こしよう

流れ星にお願いしたいらくらいずっと欲しいと思っていたオモチャも時が経てば、部屋の隅っこに転がる「いらないもの」になってしまう。

今までの僕の欲望なんてそんなものだったということだろう。

そんな僕だったけど、君と再会したことで一気に叶えたい夢が100個できたといっている。

どうせそのほとんどが君とのことであろうことは察せられるだろう。

そして、その夢は時間とともに色あせるような安っぽいものではないことをここで明言するわけである。

ただ、その願いの数々も最終的には「君とずっと一緒にいたい」という願いに凝縮されるだろうから(それこそ結婚とかのタイミングで)、永遠の愛を改めて誓うとき、いまある願いの全部を、たった一つの願い(君とずっと一緒にいる)と交換しようと言っているのである。

もはやそれはプロポーズではなかろうかと思うわけだが。

いつもは喋らないあの子に今日は 放課後「また明日」と声をかけた
慣れないこともたまにならいいね 特にあなたが 隣にいたら

放課後というフレーズを忍ばせることで、この歌の主人公は学生であることを濃厚にさせる。

そして、先ほどまでは君という言葉を使っていたのに唐突に「あなた」という言葉が使われる。

ということは君=あなたではないのだろうか。

君=あなたのだとしたら、なぜこのフレーズだけあなたに変わるのだろうか。

もし、君=あなたのだとして、僕とあなたがとなりにいるリア充モードだからこそ、普段は声をかけないような非リア充の子に声をかけるようなことをしてもいいかもね、なんてことを言っているのだとしたら、なんとも失礼なフレーズになってしまうが、わりとこのフレーズの真意が理解できないでいたりする。

なぜ、あなたという言葉を使ったのかがわかれば納得すると思うのだが。

もう少しだけでいい あと少しだけでいい もう少しだけでいいから
もう少しだけでいい あと少しだけでいい
もう少しだけくっついていようよ

僕らタイムフライヤー 君を知っていたんだ
僕が 僕の名前を 覚えるよりずっと前に

「あと少しだけ」と言っているが、これはもうすぐしたら僕と君は離れるのではなく、やっと会えた喜びをかみしめている。

だからこそ「あと少しだけ」をずっと懇願しているのだろう。

というわけで、この記事の最初にたてた疑問は間違いだったというわけである。

ちなみに映画では僕と君が出会うところで話が終わるが、あのあと熱い抱擁をかわしたことがなんとなく想像できるだろう。

ただ、前前前世でもそうなのだが、時間の「差」の捉えた方が映画とは大きく異なっているのが気になるところである。

僕が僕の名前を覚えるよりずっと君を知っているということは、僕が肉体を宿す魂の頃から君を知っていたという存在になるわけだが、映画ではそんな描写はないわけだ。

だって、僕と君の時間的距離は「3年」なのだから。

もしかしたら一度は本当に死んだはずの君との距離は一度3年以上広がり、そのあと戻ってくるわけだが、そういう時の「うねり」みたいなものを表現しているのだろうか。

君のいない 世界にも 何かの意味はきっとあって
でも君のいない 世界など 夏休みのない 八月のよう

君=8月の夏休みってのは、比喩としてどうなんだろう。

大切ってことは伝わるけれど、そんな安っぽくしか思ってないの?と君に目くじらをたてられそうな。

まあ、いいんだけど。

君のいない 世界など 笑うことない サンタのよう
君のいない 世界など

僕らタイムフライヤー 時を駆け上がるクライマー
時のかくれんぼ はぐれっこはもういやなんだ

なんでもないや やっぱりなんでもないや
今から行くよ

僕らタイムフライヤー 時を駆け上がるクライマー
時のかくれんぼ はぐれっこ はもういいよ

君は派手なクライヤー その涙 止めてみたいな
だけど 君は拒んだ 零れるままの涙を見てわかった

嬉しくて泣くのは 悲しくて 笑うのは
僕の心が 僕を追い越したんだよ

一度使ったフレーズを何度も繰り返すことで、どんどん歌詞の世界に没入させるように作られているような印象。

君の涙を止めたいと思った僕が、君の涙をみて「涙を止めよう」としたことを君が拒んだ理由がわかり、なんでもないや、という言葉につながるのではないかと察する。

ところで、なんでもないや、のフレーズの最後が「今から行くよ」になっている。

僕と君は先ほどまで熱い抱擁を交わしていたのではないか。

もう少しだけ、と懇願していたのではないか。

僕と君はとっても近い距離にいるはずなのに、「今から行くよ」とはどういうことだろうか。

そもそも、なんでもないや、というフレーズは誰の何に対する感情なのだろうか。

そういえば、君のことを忘れてしまっていき、君の名前すら忘れてしまったあの時、一瞬なにかの記憶が蘇ろうとしても「なんでもないや」と言って、今いる仲間のもとに「すぐ行くよ」と歩み寄る景色を見たような気がする。

つまり、この「なんでもないや」というフレーズを発してる僕は、君という記憶が欠如している僕のように感じるわけだ。

このフレーズにだけ「君」がいないような気がするのだ。

少し前のフレーズ、「君のいない 世界など 笑うことない サンタのよう 君のいない 世界など」の部分でも、世界など、で突然歌詞が途切れるところも妙な話で、もしかすると、ここで僕は君の名を聴く前に君のことを忘れてしまったのではないかという想像が出てくるわけだ。

僕の心(記憶)が僕を追い越してしまったからこそ、再び君の記憶がなくなってしまったのだ。

「秒速5センチメートル」にあったバットエンドを「君の名は。」は払拭したようにみせていたが、あえてその後を描かなかったのは、そのあとに「あるかもしれないバットエンド」の可能性を残したからなのかもしれない。

そして、野田洋次郎はもしかしたら起こるかもしれないバットエンドの可能性もあえて歌詞に書くことで、ハッピーエンドを信じる人たちに不吉な未来を一瞬だけちらつかせ、そのあとに「なんでもないや」と含みを持たしたメッセージを送ったのかもしれない。

あの後の何もないままハッピーエンドになる可能性と、突然雲行きが怪しくなってバットエンドに変わってしまう可能性。

野田洋次郎はふたつを平行的にみせたいがゆえに、、歌詞のタイトルは「なんでもないや」なんていう、どっちつかずな言葉にしたのではなかろうか

ちなみにもうひとつ、全うなハッピーエンドのエンディングのため書かれた歌詞はAimerに提供した「蝶々結び」ではないかと個人的に予想している。

だから「蝶々結び」には「結び」のモチーフが登場し、ご丁寧に赤のひもをつかったジャケットを使っているのである。

そんな妄想。

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