ミスチルの「himawari」の歌詞について書いてみたい。

この歌は映画「君の膵臓を食べたい」の主題歌であり、この映画の物語を受けたうえで、この歌を作ったとのことなので、この記事でも一部「君の膵臓を食べたい」のネタバレを含む記述があるので、ご注意頂きたい。

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作詞:Kazutoshi Sakurai
作曲:Kazutoshi Sakurai

タイトルについて

なぜタイトルは「himawari」というローマ字表記にしたのだろうか?

ミスチルが日本語のタイトルでありながら、タイトルの表記はあえてローマ字にしたものは、過去曲全てをみても「HANABI」しかない。

この2曲は幾つか共通点がある。

「himawari」も「HANABI」も、ともに歌詞中にもタイトルと同じ単語が出てくるのだが、歌詞ではアルファベット表記ではなく、日本語で表記されている。(ちなみに、ひまわりの場合は平仮名表記、花火は漢字表記で出てくる)

そして、二つともタイトルに使っている言葉は、夏を象徴する単語であり、一般的な歌ではネガティヴな意味には使われず、ポジティブな象徴や夏の情緒を作り出すための言葉として、使われることが多い。

もし、この単語を上記のような、つまり他の歌と同じような使い方をするつもりならば、おそらくローマ字表記にはしないで、素直に日本語で表記していたと思う。

が、この言葉は普通の使われ方は違う、別の意味を込めて使っているんだよ、ということをはっきり示すために、あえてローマ字表記にしたのだと思われる。

では、どんな意味を込めたと考えられるだろうか?

とりあえず「HANABI」に関しては一旦置いておくとして、「himawari」に照準を合わせて話を進めていきたい。

「ひまわり」と聞けば、太陽に向かって真っ直ぐ咲く花を思い浮かべる人が多いだろう。

そのイメージから、希望の象徴だったり、明るい未来を連想させる言葉になりがちだし、実際、多くのポップスはそういうイメージに寄りかかって「ひまわり」という言葉を歌詞に登場させがちである。

が、この歌はそういう安易な希望や明るさを描くつもりはなかったわけだ。

安易な希望の連想を回避させたくて、「ひまわり」という言葉は平仮名表記にしないで、アルファベット表記にしたのである。

実際、桜井はこの歌の「ひまわり」は、太陽に咲くひまわりではなく、葛藤や苦悩の中で咲く「ひまわり」というものを描きたかったと語っている。

光を帯びて太陽に咲くひまわりではなく、闇の中でもそれでも生き抜いて育っていこうとするひまわり。

そんな考えがあったからこそ、タイトルはローマ字表記になったわけだ。

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*わりとここから「君の膵臓を食べたい」のネタバレになるような記述がでてきます。

<君の膵臓を食べたいとのリンク>

リンクというか、映画の「あとがき」そのものではないか、と感じる歌詞の運びである。

この歌に出てくる僕は、もはや=映画の主題歌である僕とみて遜色のない描き方であり、君の死を受けて12年経った今の僕(映画の主人公)の解答はこれです、と提示してるくらい、そのままどストレートに物語にリンクさせている。

歌詞でも「死に化粧」「想い出の角砂糖を溶かさないように」「僕の命と共に」「そんな君に恋してた」という言葉からも分かる通り、僕の前にもう君はいなくて、その理由は、君がもうこの世にいないからである、ということをはっきりと意識させる作りになっている。

例えば、失恋して君と会えなくなったというテイストを残す余地も作ってもよかったし、複数の解釈ができるような歌にしておけばそちらの方が汎用性の高い受容のされ方をしたかもしれない、

が、この歌は完全に「君は他界している」感を迷いなく選んだ。

どこまでも、「君の膵臓を食べたい」という歌の主題歌として恥じないような、歌詞構成を選んだわけだ。

ひまわり=君=映画のヒロイン、ということも歌詞を読めば明らかになるわけだが、君が「暗がりで咲いているひまわり」であることはこの歌で語っても、なぜ君が「暗がりで咲いているひまわり」であるかについては、一切歌詞では語らない。

なぜなら、ここに対する「なぜ?」は映画が語ってくれるからであり、映画でこの歌を聴く人は、ここに対する「君」というイメージの代入はきちんとできることがわかっているから、僕と君との余計な物語を歌詞で語ることは蛇足になると判断し、カットしたわけだ。

僕は君に対してどう思っているのか?そこに対する解答だけに照準を絞って、この歌の歌詞は書かれているわけである。

また、ラストのフレーズは「そんな君を僕は ずっと」で締めくくるわけだが、あえてラストは「恋してる」とか「愛してる」とかで締めくくらないところもポイントである。

狙いとしては余韻を残している、ということになるのだろうが、これは僕の性格にも関係している表現法な気がする。

仮にもし君が生きていて、これからも新たな想い出を作れるならば、「愛してる」としていたかもしれない。

が、もう君はいないからこそ、「ずっと」の感情は年月が経つごとに色褪せる可能性が高いわけだ。

おまけに、僕は<考えてる風でいて実はそんなに深く考えていやしないこと、思いを飲み込む美学と自分を言いくるめて、実際は面倒臭いことから逃げるようにして邪(よこしま)にただ生きている>人間だからこそ、最後は断定の言葉を述べず、濁したのではないか、とも考えられる。

どういう感情が「ずっと」なのかは語らないことで、僕が君に対して「ずっと」何を想うのかは、聴き手に委ねさせるわけだ。

ちなみに蛇足になるが、僕は「君の膵臓を食べたい」のような、安易に人を死なせ、その死を使って涙を誘うタイプの物語が嫌いである。

その死に意味があればいいけれど、僕は泣かせるためのレトリックとしてしかその死が機能していなかったように感じれば、どうしても拒絶反応が出てしまう。

ましてや、君の死の直接的な原因がアレだからなぁ、なんて思うわけだが、まあそれは置いておこう。

映画の話でいえば、どちらかというとポイントなのは、僕は君に「暗闇の中で咲くひまわり」のような、絶望の中でも明るさを失わず、ひまわりのように咲いていく強さに惹かれたわけだけども、映画における君もまた僕に惹かれており、僕が君に惹かれることと同じ構造で、君もまた僕に惹かれていた、というのがあの物語のキーポイントなのだ。

そして、それは「君の膵臓を食べたい」という言葉に集約されているのがあの物語のポイントなわけだけど、これは歌詞考察と一切関係ない話だし、単に映画のネタバレになってる気がする。

大丈夫だろうか?

まあいいか。

サウンドに関して

この歌は単純に歌詞の内容を追うことよりも、この歌詞を乗っけた音の作り方の方が、楽曲単体を考えるうえではポイントかもしれない。

ミスチルのシングルでも、サウンドがここまでエモーショナルなものはあまりなかったように思う。

なぜここまでエモーショナルになったかといえば、ここまではっきりと「人の死」を予感させる言葉選びをした
からなのではないか、と思うわけだ。

安易な泣きメロとお涙頂戴なアレンジに落ち着かせてしまえば、それこそ「君の死」が単なる感情のための小道具に成り下がる恐れがあった。

人の命を扱う壮大さと向き合い、その死を受けた悲しみと、その悲しみを乗り越えるまでの過程と、超えた先に宿した感情を表現するためには、ここまでエモーショナルになる必要があったのかもしれない。

実際、あのアレンジだからこそ、この歌詞でもすーと身体に入ってきている。

少なくとも、僕はそうだ。

結論としていえば、あのアレンジだったからこそ、僕はミスチルのシングル史として名を残すような歌になったのではないかと感じたし、そういう意味では、ミスチルという歴史においても、ある種の「himawari」のような存在の一曲になったのではないか、と思うのだ。

そして、桜井はこの歌を希望側から書いたのか、絶望側から書いたのか、その絶妙なバランス感覚に関してはタイトルのローマ字表記とこのサウンドが示しているのだと思う。

あなたはこの歌詞について、どのように感じましたか?

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