フジロック周辺で色んなニュースが出ている。自分は配信でちょろっとライブを観た程度の人間で、現地参加はしていないので、各アーティストのライブについての感想や意見は、この記事では割愛しておきたい。
そのうえで、「フェスってどうあるべきなのか?」という部分については、少し考えさせられることがあった。その観点から、考えたことを言葉にしてみたい。
2026年の苗場で可視化されたもの
各アーティストのパフォーマンスの是非やMCのアレコレは一旦差し置いて、なぜ今回のフジロックが色んな形で議論の的になっているのかを考えると、ざっくり下記の2つに分けることができると思う。
- 現場に行かなくてもライブを「目撃」できるようになった
- SNS、とりわけXでは、強い意見や対立的な反応が広く目に触れることがある
まず「目撃」の部分について言うと、今年もフジロックでは、4つのステージから一部アーティストのライブが世界に向けて無料配信された。現場に行かなくてもライブを「目撃」し、カジュアルに楽しめる。それに伴い、より多くの人がフジロックの感想を口にするようになった。
さらに、そこで生まれた映像や言葉の一部は、短い切り抜きとしてSNSへ流れていくことがある。そのとき、現場ではある文脈のなかにあったMCや演出が、そこから切り離され、別の角度から解釈されることになる。
なお、フジロックの公式ガイドラインでは、出演アーティストの撮影・録音・録画は禁止されている。そのため、SNS上の映像を扱う際には、公式配信に由来するものかどうかを区別して受け取る必要がある。誰がどの文脈で切り取ったのかが曖昧な映像ほど、慎重に扱うべきだろう。
結果、さまざまなアーティストのライブをめぐって、賛否が飛び交うことになった。
例えば、27年ぶりに出演したHi-STANDARDのステージでは、ギターソロをきっかけに「ニッポン」コールが起こり、日の丸も揺れた。その後のMCでは、右か左かという枠を越え、互いを認め合う音楽の力や反戦への思いが語られた。この場面は、反戦と団結の呼びかけを評価する声がある一方、「ニッポン」コールや国旗が生む意味を問う声も上がり、SNS上で議論になった。
同じ日のASIAN KUNG-FU GENERATIONでは、後藤正文が、戦争に反対することの可能性について語り、「スキンズ」を自分たちの反戦歌として演奏したと現地レポートは伝えている。最終日には、北アイルランドのKNEECAPがパレスチナ旗とともに登場。そして、その日のGREEN STAGEヘッドライナーを務めたMASSIVE ATTACKは、ガザ侵攻、AI監視社会、植民地主義の歴史、フェイクニュースなどを、日本語字幕も交えながら巨大スクリーンに映し出した。
ステージ上のメッセージは、発した本人の意図だけで意味が決まるわけではない。短い映像や言葉として文脈から切り離され、受け手の立場に沿って再解釈される。少なくともXを眺めていると、反応を集めた強い言葉や対立的な切り取りほど目に入りやすい。そうした構造もあいまって、議論はなおさら混沌としたものになった。
政治的なメッセージを前にすると、「フェスでは音楽だけを楽しみたい」という声が上がる。その感覚自体は否定されるものではない。日常から逃れるためにフェスへ行く人もいるし、ステージ上の主張に同意する義務もない。
一方で、「音楽だけ」と政治や社会を切り分けることに、もどかしさや懸念を覚える人がいるのも理解できる。フェスは、始まる前からいくつもの価値判断によって作られている。パンク、ヒップホップ、レゲエ、フォークといった音楽も、それぞれの社会や生活を背景に生まれた。そのルーツを考えると、音楽と政治は本来密接に関わってきたものであり、それが「普通」だと考えても不自然ではないからだ。
ただ、政治的なメッセージであれば無条件に正しい、という話でもない。どんな視点や言葉で語られ、その結果、人が考える余地を開くのか。それとも、すでに持っている立場を補強するだけなのか。そこは別に考える必要がある。
それこそハイスタのメッセージをめぐる議論の一部は、それぞれの陣営の「正しさ」を補強する材料として消費され、結果的に分断を深めているようにも見えた。そこには、政治を語りにくくするような、健全とは呼べないコミュニケーションも散見された気がしてならない。
アーティストは政治的なメッセージを発するべきだ、とまでは思わない。ただ、そうした言葉をカジュアルに出せる余地がある方が健全だよなーとは思う。観客が距離を取りながら、賛同も反発も保留もできるなら、それはそれでいい。
難しいのは、意見が短いセンテンスに切り取られた瞬間、過激な物言いに吸収されてしまうことだ。賛同であれ反発であれ、どこかの立場を強化するためのプロパガンダに回収されてしまうのであれば、フェスにおける表現のあり方について、色々と考えさせられる。
全部に賛同しなくても、作品は受け取れる
例えば、アジカンのゴッチのスタンスに1から100まで賛同できるわけではないけど、ある部分のスタンスには共感できるし、別の部分のあり方には納得できない、みたいなことって往々にしてあると思うのだ。
あるいは、作品は好きだし、歌詞は好きだけど、このトピックに対するスタンスはまったく理解できない、というケースもあると思う。
そういうものに出会うと、それが作品を享受するうえでの「ノイズ」になると感じ、「余計なことは言わないでくれ」と考える人もいるだろう。その感覚もわかる派ではある。
でも、そういう揺れ動きもまた、同時代を生きるアーティストの作品に触れる面白さだと思う。フェスの場では政治について考えたくない人もいる一方で、フェスでトピックになったからこそ「知る」ことができた政治的な問題だって、きっとある。
そうした「知る」ことによる変化は、SNS上では可視化されにくい。けれど、その人にとってはかけがえのないものになっている、というケースはわりとあると思うのだ。今回のフジロックにおいても、きっとそうだ。
そう考えてみると、SNS「だけ」を見れば、色んな地獄が広がっていて暗澹たる気持ちになることもあると思う。でも、一人ひとりの生活のなかでは、確かな刺激や知見に触れる機会にもなっているはずだ。
フジロックをめぐるすべての言動が「正解」だとは思わない。それでも、個々がものを考えるひとつの契機になっているのであれば、それもまたフェスの可能性なんだろうなーなんてことを思う次第。
だから今、フェスに求めたいのは、ひとつの正解ではなく、音楽を入口にして、知らなかった現実や異なる考えに触れ、その問いをそれぞれの日常へ持ち帰れる余地なのだと思う。すべてに賛同できなくてもいいし、距離を取ってもいい。それでも考える契機が残るなら、それもまたフェスが持つ大切な可能性なのだ。
色んなことを知れば知るほど、安易に「正しい」を語ることは難しくなる。それでも、音楽を入口にして、考え続けられる余地を残すこと。その積み重ねを大切にするフェスであってほしいなーなんてことを改めて感じた、そんな休日。

