BUMP OF CHICKENの「邂逅」が突き刺さる件
BUMP OF CHICKENの「邂逅」をゆっくり聴いていたんだけど、やっぱりBUMP OF CHICKENの音楽が良いなあと思っている自分がいる。
自分はデビューから現在にかけて、BUMP OF CHICKENをわりとリアルタイムで聴いてきた人間だ。
BUMP OF CHICKEN側の作品性もフェーズによって変わってきたことを実感したし、自分の感性も時期によって変わってきたことを実感することもあった。
そのため、BUMP OF CHICKENの音楽が痛切に突き刺さることもあれば、あまり”深く”は刺さらない時期も正直あった。
聴かないという選択肢はまったくないんだけど、距離感が変わる時期はあった、という感覚が近いのかもしれない。
で。
2024年に「邂逅」という音楽がリリースされたわけだけど、聴きながらにして、思ったのだ。
自分が10代の頃、はじめて「ガラスのブルース」だったり、「K」だったり、「天体観測」を聴いたときの衝撃と、「邂逅」を聴いたときの感想が重なるのかな、と。
仮にそう問われたとしたら、間違いなく重なりはしない、と答えるだろうな、と。
もちろん、あの頃の良さも今のBUMP OF CHICKENの中にはあるけれど、当時の良さと今の良さが同じようなものかと言われたらそんなことはないし、色んな音楽を聴いた中で、今BUMP OF CHICKENの新譜を聴くと、自分側の受け止め方も大きく変わってしまう現実があるからだ。
じゃあ、どっちの方があなた的に好きなのか?と問われたら、言葉を窮する自分がいる。
そりゃあ思い出補正とか色々考えたら回答は変わってくるんだけど、「邂逅」をたった今聴いている自分からすると、あまりにも安易に答えを出せない感動を「邂逅」から覚えてしまっていることに気づくからだ。
「ガラスのブルース」や「天体観測」が絶品のハンバーグーやカレーライス的な「美味さ」なのだとしたら、「邂逅」は極上のお漬物のような「美味さ」なのである。
比較できない「美味さ」があるし、当時よりも年を重ねた今の味覚には、お漬物の美味さがあまりにも沁みていく・・・みたいな心地がある。
じゃあ、そこまで言うなら「邂逅」のどういうところがいいの?
仮にそう問われたとしたら、自分はこんな風に答えるはずというマインドで、今甘楽言葉を紡いでみたいと思う。
本編
BUMP OF CHICKENの「邂逅」の話
こういう切り口からBUMP OF CHICKENの話を始めた場合、歌詞の素晴らしさを語ることが多い。
自分的にも藤原基央が紡ぐフレーズに惹かれる部分は多いんだけど、一旦歌詞の部分には触れずに話を進めてみたい。
自分的に「邂逅」が良いなあと思ったのは、Aメロのタッチ。
近年のBUMP OF CHICKENの楽曲って、Aメロに魅力的な要素が強い。
というのも、近年のBUMP OF CHICKENのAメロって、意図的にJ-POP的ではないメロディーの切り方をしている印象なのだ。
例えば、冒頭は「夜に塗られた水面に」というフレーズで始まるが、「夜に」「塗られた」「水面に」のメロディーの乗せ方が、良い意味でJ-POPっぽくないのである。
あえて言えば、民族音楽っぽいメロディーの乗せ方をしており、意図的にこのメロディーが昨今の日本の大衆音楽を出典していない心地を与える。
どこまで意図的かはわからないが、言葉に対するメロディーの乗せ方ひとつとっても、いくつもの音楽的ルーツを感じさせる作り方になっているのだ。
「邂逅」のみならず、BUMP OF CHICKENの音楽はそういうアプローチを感じさせるものが多い。
例えば、アップテンポで疾走感のあるビートメイクが印象的な「月虹」だったり、
アニメのOP主題歌として話題になった、人懐っこい楽曲である「SOUVENIR」でも、そういうメロディーラインを感じることができる。
近年のBUMP OF CHICKENの音楽って、ショート動画で切り抜けれて、ひとつのフレーズが大きなバズを生み出す・・・みたいな広がり方をすることが少ないと思っているんだけど、それは意図的に<昨今の日本の大衆音楽的なメロディーから距離を置いているから>な部分もあると思う。
メロディーというのはある種のパターンや方程式に組み込みながら語ることも可能なもので、キャッチーと言われやすいメロディーには、それ相応の特徴や方程式が繰り込まれていることが多い。
しかし、BUMP OF CHICKENは意識的に無意識的にかはわからないが、メロディーに対して最短距離でそういうアプローチをする・・・ということをしない。
どちらかというと、民族音楽的なエッセンスをメロディーの流れに忍ばせることで、じっくりと聴くことで味わいが深まるような作り方をしている印象を受ける。
だからこそ、BUMP OF CHICKENの言葉ってじわじわと広がるように胸に届くのだと思うし、藤原基央のボーカルがより歌の中で存在感をもって響くように感じる。
こういう「邂逅」のメロディーのあり方が、自分的により突き刺さった理由のひとつであるということをまずは述べておきたい。
バンドサウンドのバランス感
BUMP OF CHICKENの音楽って、誰かの楽器がどかんとスポットを浴びる、ということがあまりない。
どちらかというと、藤原基央のボーカルが軸にあって、ボーカルが紡ぐ言葉が世界観を構築していき、そこに寄り添うようにサウンドを組み立てていく印象を受ける。
曲があって、その曲を大事にしながら、アレンジを煮詰めている感じがするというか。
例えるならば、言葉のひとつひとつが<星>であり、その言葉が紡ぐ世界観が<空>であり、その<空>を自分の目が焼きつくまでの道中が、アレンジであるというか。
仮にサウンドが必要以上にうるさかったら、星の輝きって見えづらくなる。
でも、全部の星の輝きを目にしようと思ったら、例えば<望遠鏡>が必要だったりするし、星をちゃんと観ることができるロケーションが必要になる。
そういう<星>を綺麗にみるための全ての要素が=サウンドになっている、とでも言えばいいだろうか。
話が脱線したけれど、「邂逅」って、このサウンドの押し/引きだったり、BUMP OF CHICKENのサウンドと、BUMP OF CHICKENのメンバーのサウンドではないバランスと組み合わせが絶妙なのである。
他のバンドだったら、もっと自分たちのバンドのサウンドを入れる、という選択をすることがありそうな場面でも、今はまだ不要と感じたら、そこではあえて歌の中に介入しない。
だからこそ、ここぞの場面ではギターが主役になることもあるし、ベースが屋台骨になってメロディーを組み立て直すこともあるし、ドラムが楽曲の盛り上がりを作り出すこともある。
メンバーそれぞれが、それぞれの音を信頼しており、自分たちの役割をしっかり心得ているバンドだからこその世界観が、「邂逅」の中で、鮮やかに体現されている。そんな印象を受けるのだ。
まとめに代えて
サウンドの話でいえば、初期の頃の青臭いロックサウンドが刺さっていた自分だったけど、大人になった今、役割をしっかり心得て丁寧に音を積み上げるサウンドにぐっときたんだよなーという話。
それが冒頭の、
「ガラスのブルース」や「天体観測」が絶品のハンバーグーやカレーライス的な「美味さ」なのだとしたら、「邂逅」は極上のお漬物のような「美味さ」
という言葉に繋がったというのが、この記事のひとつの結論。
なんにしても、「邂逅」で感じられる感動って、BUMP OF CHICKENの楽曲だからこそだよなーと改めて思ったからこそ、そういえばまだ「邂逅」はしっかり聴いていないやという人は、このタイミングで味わうように聴いてほしいなーと思った次第。
関連記事:BUMP OF CHICKENの「Sleep Walking Orchestra」に震えている
関連記事:BUMP OF CHICKENの楽曲って、タイトルの付け方が良いなあと思う話