よく最近の若者は、単にやりたいから「ダイブ」をやってるだけで、音楽の衝動として「ダイブ」やってる人がほとんどいない、みたいな文句を言う人がいる。

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曰く、「ダイブ」とは本来音楽によって感情が爆発して衝動が抑えきれなくなったときに「気がついたら」やってしまっているものであり、「やりたいからやる」みたいな、頭で考えたうえでやるものじゃない、という論。

確かに、ごく稀にだが、感動のあまり涙で顔面グチャグチャにして、笑ってるのか泣いてるのかよくわかんない状態で「うおおおおおお」と叫びながら、動物的衝動でダイブしている人もいる。

これこそ「衝動」でダイブを行った人間の鏡である。

けれど、この「衝動」って結局どういうもんやねん?と思う人もいるかもしれないし、あなたのダイブは「衝動によるダイブじゃない」と指差されてる人だって「いやいやいやいや、俺のダイブは本気のダイブだし」と思っている可能性が高い。

「衝動」ってなんやねん?という話。

この「衝動」の正体を、きちんと言語化して説明することはあまりないと思う。

そこで、この記事では「衝動」とは何なのかを掘り下げてみたい。

それを考えるうえで、重要になるのが「田植えフェス」という言葉。

田植えフェス?なにそれ?そう思う人がいるかもしれないので、簡単に説明したい。

田植えフェスとは、雨が降ることでフェス会場の地面がぬかるんでしまい、まるで田植え前の田んぼのようにドロドロなぬかるみになってしまう、そんな残念なフェスの総称である。

まだよくわからん、という人は「トレジャー2015 田植えフェス」と画像検索して頂けたら、ご理解頂けると思う。

この田植えフェスの「田植え」に対するリアクションが、ダイブの話でよく出てくる「衝動」と密接に繋がっている、と思うわけだ。

どういうことか?

ググってもらえればわかるが「田植えフェス」 =地面がドロドロなわけで、足元が汚れるリスクがすごくあるのだ。

うっかり片足を突っ込むと、面白いくらいに靴がめり込むし、コンバースだろうがバンズだろうがアディダスだろうがニューバランスだろうが、靴を突き破った泥があなたの大事な素足を汚していく。

靴や靴下が犠牲になるくらいならまだかわいいもので、ロックフェスだとキチガイのように暴れる人も出てくるので、泥がカエルのように飛び跳ね、あんなところやこんなところも汚れてしまうのだ。

まあ、当日が土砂降りの雨なら、会場にいる人全員が汚れることを素直に受け入れるだろう。

問題は前日は雨だっただけで、今日は晴れているとか、今は雨が降っているけれど小雨だから気を使えば被害は最小限に抑えられる、みたいな微妙な天候の日。

こういうとき、「田植え」に対する人間のエゴが生まれてしまう。

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一度でも晴れの日に地面がぬかるんでるフェスに参戦したことがある人ならば、わかると思う。

往々にして、序盤に出演するバンドは、参加者全員が「えーてぃーふぃーるど」を張ってしまい、そこに見えない壁が立ち塞がっているかのように、観客の形がドーナツ化してしまう。

なぜドーナツ化するのかというと、ドロドロの場所をお客さんが避けるからであり、すごくドロドロな場所は大体最前のすぐ後方の、モッシュピットだったりするからだ。

たまーに目立ちたがり屋が、空洞になった田植え地帯に現れて意味不明なダンスをしたり、THEリア充みたいな男女混合の団体が現れて、女子が「あたし、汚れるの嫌だからこの辺でみるわあ」と言ったのに対し、男子が「とかいうのもフリやろう?わかってんねんで?」みたいなじゃれ合いをしながら、女子を抱き上げて泥んこにその女子を落としてドロドロにさせて、男子はケラケラと笑い、女子は「ひど〜!!まじありえん!!」と口調では怒ってみせながらも、顔からは微笑みが溢れているみたいな奴もいたりはするが、まあ例外っちゃ例外ではある。

ぬかるみを占領しようとする輩はしばらく現れない。

けれど、どんな田植えフェスでも、最初は開かずの扉だった田植えゾーンにいつしか人が流れ込み、気がつけば汚れることを躊躇う人が減っていく。

この「汚れるのが嫌だなあ」から「汚れてもいいや」というメンタル的移行こそが「音楽による衝動」の仕業だと思うわけだ。

理性とか損得感情とか、その後のこととかひとまずどうでもよくなって、あれほど汚れることが嫌だったのに「気がついたら」泥の中に足を突っ込んでしまうその瞬間、その行動を起こさせた脳内メカニズムこそが「音楽の衝動」による仕業なわけだ。

ただし、音楽がかかる前から泥に積極的にアプローチしている勢もいるが、そいつらはこの限りではないけども。

音楽があってもなくっても最初から泥んこで暴れているのは、この記事で指摘しているような「音楽の衝動」による行動とはいえない。

音楽の力によって「嫌だなあ」から「まあいいか」に切り替わる、その刹那的な瞬間こそが「音楽の衝動」なのである。

面白いのは「汚れたくない」から「汚れていいや」に変わる最初の一歩は音楽の衝動による行動なわけだが、一度汚れてしまったら、そこからは「衝動」による行動ではなく「単に慣れた」だけになってしまう。

確かにあったはずの「衝動」は知らず知らずのうちに形を変えていき、霧散するのである。

おまえのダイブには魂がこもっていないと指差されてる害悪系ライブキッズだって、もしかしたら初めて「飛んだとき」は音楽の衝動で突き動かされた、すごく純粋なものだったのかもしれない。

しかし、ずっとライブやフェスという現場に通うと、「それをすること」に慣れてしまい、純粋さや衝動は影を潜めてしまう。

そして、いつしか古参ずらしてしまったり、ファッションダイバーに成り下がってしまったり、サークル仕切りたがり勢とかになってしまったりするのだ。

人ってそういう生き物なのだ。

結論。

人間は忘れやすい生き物だからこそ「汚れたくないなあ」から「汚れてもいいっか」に変わった、音楽の衝動に突き動かされたその瞬間、音楽というもので自分の行動を変えさせた不思議な魔力、そしてその音楽に対する純粋な気持ちをいつの間にかどこかに置いてきてしまう。

けれど、それはなくなるものじゃなく、本当は心の奥底に根付いているはずだ。

それって田植えフェスのような劣悪な環境のときこそ出やすいものなので、この週末「田植えフェスくさい恐れのあるメトロック」なんかにいく勢も、安心して身を投じてほしいのだ。

そして、感じてほしい。

ああ、これが音楽による「衝動」なのかーと。

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