SNSで感想を書くこと、ハードルが高くなり過ぎている件
最近思うんだけど、SNS、ちょっと殺伐としすぎてない????ってこと。
もちろん、観測しているSNSや、どの界隈の動向をウォッチしているか?で見え方が変わるんだけど、ことX(旧Twitter)においては、その殺伐どの度合いが年々上昇している。
まあ、昔から2ちゃんねるしかり、ニコニコ動画しかり、ヤフコメしかり、観測する場所によっては独特のエネルギーが漂っているものではあった。
だが、あるタイミングからインターネットは開けた場所になり、SNSまわりにおいても、別の空間というよりは、リアルと接続した場所に変わっていった。
だから、SNSまわりで使われる言葉もインターネットの独特のものから、リアルに接続したものになっていったし、逆に言えば、インターネットの言葉がリアルで使われる言葉に影響されたような感もある。
結果、インターネットの空気感が浄化されていた時代もあった。
だが、ここ数年で何かしらの揺り戻しがあったというか、特定の言葉が強くなり過ぎたというか、交わることなかった界隈が交わるようになってしまったというか、SNSの空気が気がついたら、とんでもない方法に殺伐とした印象を受ける。
例えば、本来であれば「ほのぼのネタ」で消化されそうな、家族のエピソードが、別の界隈に見つかってしまったことで、思わぬ方向の憎悪に晒されてしまう、ということがある。
喧嘩がネタの内容だったとして、喧嘩元になった双方では「和解」している話なのに、なぜか関係のない第三者がブチギレているという事案もわりとよく起こる。
エンタメで言えば、推しのことが好きだ!とただオタク喋りしている投稿に対して、思わぬ角度のアンチコメントが突き刺さる、ということもある。
SNSの言葉が、良くも悪くも届きすぎるようになってしまった結果だと思う。
その「届きすぎる」は良い部分もあるし、悪い部分もある。
けれど、シンプルに感想を言いたいなーというマインドの人にとっては、ちょっと殺伐としすぎではないか?
そう感じることも増えたのではないか?と思う。
届きすぎることで、これまで動かなかった問題が動くようになったという「良い側面」もある一方で、本来憎悪の対象になるべきではない人が、思わぬ角度からアンチコメントに晒される様子をみると、さすがにそれはもっと穏やかにコミュニケーションを取ってもいいのではないか?
そう思うことも多いわけだ。
鋭いコミュニケーションを取る人って、あまりにも物事を1か0かでみている傾向があるし、仮に自分に非があったとしても、その指摘が妥当なものだとしても受け入れないような、独特のコミュニケーションの作法がある気がして、たぶんリアルの場だと相手が最後まで言葉と紡ぐ前に覆い被さるように自分の意見を言うような、そういうアレなものを感じることも多い。
まあ、なんにせよ、ちょっと殺伐としているよなーという話。
だから、ライブが良かったとか作品が良かったみたいな感想一つとっても、気がつくとハードルが高くなっているなーと思うことも少なくはない。
そういう世の中の先にあるもの
音楽でいうと、見つかる界隈の規模感が含んでくると、感想のハードルが高くなる印象だ。
狭いライブハウスシーンであれば「おもろい」として受け止められていたことも、お茶の間の規模感で放たれたら「痛いこと」に変わることもある。
ポリコレ的な視点はもちろんのこと、そもそもの文化コードの違いを認識しないままに、小さい規模感だったときの頃のボールの投げ方をした場合、その文化コードを熟知している人と、熟知していない人では見え方が異なるため、受け止めた後の感想ツイートでも、予期せぬ火種が発生してしまうよなーみたいな話。
自分的には色んな意見が出ることは素晴らしいことだし、建設的な意見が出る自体も良いことだと思う。
ただ、気がつくと、どちらの立場にせよ、気がつくと尖った言葉が踊り出し、議論もへったくれもない話になってしまうことが往々なので、そこはちょっと殺伐度の度合い、薄めるべきでは・・・と感じることがあるよなーという話。
そんな諸々も踏まえると、確かに感想を言うことそのもののハードルは高くなっているのかもしれないと思う。
でも。
逆にいうと、感想をきちんと言葉にすることの重要度も増しているよなーという感覚もある。
他人がどう思うか?は一旦脇に置いた、自分はこう思う、の感覚はすごく大事だなーと思う。
SNSにおいても、(特定の方向における)出る杭はうたれる、の傾向になりがちな今の空気感だからこそ、感想は感想として出すことの意義もあるよなーという、そういう話。
昔になかったハードルの高さは、ある。
でも、その分、そこにある価値は大きなものになっている。
特に「好きなアーティストに対して、自分はとても好き」「こういうところが好き」「自分は好きだった故に、最近こういうエピソードがあった」みたいな話を、いちいち表明する意味も意義も年々大きくなっているという話でもある。
それがどう影響するのかは、その場でわからないことも多い。
でも、それは実は大きな血となり、肉となっている、というのはある。
もしハードルが高くなってなんだか言いにくくなったなともし思っていたとしても、他人にどう思われるかわからんと気になり出しているとしても、それはそれ、これはこれ、でいいと思う。
まずは、自分は好きである。
こういう起点を常にあってもいいし、そういうことの意味は想像以上に大きい。
そんなことをふと感じる、そんなお昼の日曜日。