本当の本当は何が”ロック”で、何が”ロック”ではないのかを考えてみた
6月9日はロックのことに考える人も多い。一日過ぎてしまったけれど、自分も久しぶりに「何がロックなのか?」ということについて、考えてみたいと思う。
今なおSNSをみると、あれはロックだこれはロックじゃないというポストを見つけることができる。
この「ロック」かどうかの基準って、人によってかなり違う。
そのため、「ロック」という言葉をめぐる騒動は、いつもややこしいことになる。
某大型フェスを企画する某メディアにおける「ロック」の言葉は、ある種のマインドを指した言葉として用いることが多く、世間的にみたら「ロック」って形容しないアーティストにおいても、こういう視点でみれば「ロック」と言えるよね、という論法を用いて、「ロック」であると形容することが多い。
ジャンルとしてのロックを紐解いても、認識の細分化が生まれている。
バンドででかい音が鳴らいしている=ロック的と捉えることもあれば、ラウドやパンクの色合いが強いバンドのサウンドこそがロック的だ、と主張する声もある。サブスクのロックというジャンルをみても、カオスなことになっている。
もともとはロックって、黒人音楽のロックンロールやブルース、カントリーミュージックに起源があるはずなんだけど、きっと今ロックかどうかを評価するうえで、黒人音楽のルーツ性を感じるどうかを主張する人は少数派のように思う。
ジャンル性の話は難しくなるが、よくロックかどうかという話をしていくうえで、「ルールでがちがちに楽しみ方を縛るのはロックじゃない」という話も挙げられる。この言葉を掲げるとき、自分たちのやりたいことを制限するなんて不服だというニュアンスでその話を挙げることもあれば、「自由であることを縛ること」の危険性を踏まえたうえで、そういう主張を掲げるケースもあるように感じる。
本質的にロックというジャンルは「反体制」を根ざしているケースがベースにあった。それは<立場が弱いもの>が<立場の強いもの>に搾取されているという実情があり、<立場の弱いもの>が<立場が強いもの>に対して、自分たちの主張をしていく、というベースがあったからこそ、歌を通じて自分たちの想いを主張する、という意味合いに尊さを込める、というケースがあった。
で。
そういうエネルギーとかパワーに自覚的であり、そういう力の重要性を感じているプレイヤーが「ロック」を意識することが多かったからこそ、「ルールで縛る」ことに対して抗う姿勢をみせたことが多かったのかな、という感じることもあった。
とはいえ、ロックのライブはモッシュやダイブがないとダメでしょ、という言葉の背景にどこまで想いを込めているのかは、主張する人によって千差万別な気もする。が、それでも、安易に空気に流されて迎合することはロック的ではない、くらいのニュアンスを持っている人は多い気がする。
・・・と考えたとき。
確かに「空気」に迎合するだけの音楽にはロック性は感じられない、という主張は納得がいくように感じる。そういう音楽はロックというよりも、ポピュラーミュージックであり、ポップスだという主張にも一定数の理屈は通じるのかな、と思うこともある。
ただその一方で思うこともある。
というのも、色んなバンドの様子をみてきて思うのは、バンドによって戦っている種類やジャンルは大きく違うし、尖っている部分、得意としている部分、逆に苦手にしている部分は、各々違うけれど、それぞれのバンドがそれぞれのバンドのこだわりだったり、誇りをもっているということだ。
そのうえで、どうしてもそのままでは貫くことが難しい中で、それでもなんとか貫きながらサバイブしていく闘志があるように感じられることが多かった。
つまり、そこまで考えてみると、どんなバンドも、何かしらの”体制”と戦っていることがほとんどな気もしてきたのだ。
少なくとも、それくらいの馬力がないと、人の目に見つかるまで音楽をやり続けるの、エネルギーとか味ってなかなか出ないように思うのだった。
人によっては、SNSでぱっと話題になって、そこから簡単に売れたようにみえるバンドでも、想像以上に泥臭くて、泥水すすりながらここまでやってきたことも多いように感じるのだった。
もちろん、その”期間”の差はバンドによって違いがあるだろう。
そういうものを躊躇なくみせることができるバンドもいれば、そうじゃないバンドもいるようには思う。
けれど、そういう胆力なしに人の目に見つかったバンドって、そうそうはいないように思うのだ。
なーーんてことを考えた時、某大型フェスを企画する某メディアにおける「ロック」の定義がどんどん変わってきたことにも、なんとなく納得がいく自分がいる。
もちろん、興行的に色々取り込むしか他なかったことは想像にかたくないけれど、それ以上に自分自分が経験を積むと、視座が広がって、こう思っていたけどこういう側面もあるのか、の視点が広がって、気がつくと、認めないといけない範囲が増えてきたのかなーなんてことも感じるから。
あの頃は許せなかったそいつも、よくみれば同じ闘志を持ち合わせる「同志」だったということは、それなりにあるように感じるから。
2024年。
自分的には、より何がロックなのかを選択するのは難しくなっていく一方で、ロックを中心に色んな人があーだこーだ言って、ロックのことを意識し続けることそのものが、とても重要でとても大切なことなのかもしれないと思う自分がいる。
だって、誰もがロックのことなんて無関心になって、そんなのどうだっていいってなったときこそ、ロックというものは滅んでしまう。そんなふうに思うから。
全員から忘れ去られたとき、それは滅ぶのだとしたら、みんな意識でばちばちになっている今、ロックはまだまだ揺るぎない存在として、君臨する、そんなふうに思うから。