前説
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RADWIMPS(以下、RAD)が「前前前世」で一斉を風靡していた頃、こんなのRADじゃないみたいな言説がけっこうまかり通っていた。
曰く、どちらかというと「前前前世」というのはRADにとって特殊な立ち位置の曲で、普段はこんなに爽やかな曲を歌っていない、本当のRADはもっとドロドロしている。お前らのようなキラキラした一般大衆に簡単に受け入れられるような歌を歌っているわけじゃないんだぜ、みたいな話。
確かに「前前前世」がRADにとって例外的な立ち位置の曲という指摘自体は、間違っていないと思う。
ただ、本当のRAD像はこれだと言わんばかりに、ヤンデレ感の強い曲を提示して、新参によくわからないアピールをしているのをみるのは微妙な部分もあった。
なんだか、ずっと前に振られたはずなのに未だに彼氏面する痛い元カレを見ているような。
あるいは、新参=今の恋人の知らないことを吹聴して、マウントを取ってしまう、謎ポジのサバサバ系女子みたいなきつさがあるというか。
話は脱線したけれど、ここで言いたいのは「前前前世」は確かにRADにとって特殊な歌だったし、ヤンデレ感の強さもRADの大きな魅力の一つではあるけども、いつまでもRADはお前の知っているRADのままじゃないんだよ、ということだ。
それは「人間開花」や「ANTI ANTI GENERATION」のような、近年のアルバムをみてもわかることだ。
この2作品で示されるのは、RADはこういうバンドだよねと結論ではなく、むしろそういう結論を一切付けられなくなっていくバンドとしての広がりである。
RADは間違いなく『君の名は。』以前と以後で大きく変わってきている。
『天気の子』のために書き下ろされた一連の楽曲で、その変化はさらに決定的になったものになった。
というわけで、この記事ではその辺の話をしていきたいなーと思うんだけど、この記事ではなるべくRADWIMPSまわり(メンバーの活動休止みたいな話)みたいな、作品の外側の話にはなるべく触れないようにしていきたい。
また、なるべく映画のネタバレに触れないようにしますが、一部、「君の名は。」や「天気の子」の物語に関わる話もしていますので、その辺りもご注意しながらお読みください。
本編
RADWIMPSの個性とは?
まず、みていきたいのは「前前前世」なんだけど、この歌はRADっぽくない曲と言われながらも、野田洋次郎ブシというか、野田洋次郎にしか書けない歌詞だよなーと思うポイントが多い。
タイトルの「前前前世」もそうだし(今にして思えば、なぜ「君の名は。」の脚本で、こんな発想のタイトルや歌詞がかけたのか謎である)一つの事象とか感情を、やたらと過激で大げさに描いてみせるところも、野田洋次郎感がある。
そもそも、二人の恋愛という、とても身近で個人レベルの問題を、やたらと風呂敷を広げて、大げさに描い見せるのは新海誠監督も一緒である。
この<関係性を大げさに描いてみせること>こそが、RADと新海の最大の共通点だとも言える。
しかも、その大げさ具合は、ときに論理的なロジックを簡単に超越してみせる。
ちなみに、新海はその論理の跳躍を音楽に担わせることが多いんだけど、その点は置いておこう。
話をRADに戻していくと「前前前世」という作品は、おそらく死ぬほどダメ出しを受けながら制作されたものだと思う。
一番最初に提出した音源がどんなものだったのかはわからないけれど、相当なるやり取りをした結果、あの歌はあの形になったことは確かである。
だからこそ、あの歌を聴くと、今までのRADにはないものを感じるわけだ。
で、ここの捉え方って人によって様々だとは思うけれど、単にヤンデレ的とかそういう話でおしまいにするのではなくて、もう少し分析的かつ具体的に考えてみたい。
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RADWIMPSが変えたもの
これは個人的な捉え方でしかないけれど、RADの昔の歌って自分のために歌っている感が強いというか、とにかく自分本位のご都合主義的な要素が強かったように感じるのだ。(野田洋次郎がそういう人というわけではなくて、そのように受け取ることができるような歌詞が多かったという話)
簡単に言えば、自分の気持ちをあまりにも優先していて、相手=君の気持ちなんて御構いなしの、押し付け感が強かったように思うのだ。
でも、それが変わった。
「前前前世」から、そこが明確に変わったように感じたのだ。
確かに気持ちの表現の仕方は過激だけど、それでもちゃんと君に問いかけていて、君とコミュニケーションをしている僕がいて、歌の中できちんと君とコミュニケーションしながら、その気持ちを育んでいるように感じたのだ。
昔のRADの歌詞なら、もっと自分の気持ち優先で、君のことなんて自分を語るギミックにしてしまって、自分だけの気持ちを伝えるような書き方をしていたように思うのだ。
でも、それがなくなった(ように僕は感じる)。
ちなみに、この自分本位的な感情というのは、セカイ系的な想像力=新海誠の作品にも通ずるものだと思う。
「君の名は。」において、両者が決定的に去勢されたのは、この自分本位という部分だったように思うのだ。(まあ、君の名は。も十分自分本位な物語であるかもしれないが)(街そのものを滅ぼしているのに、その選択を選んだ責任感が妙に希薄だし)(でも、僕と君の二人の中だけでいえば、そうではないと思うのだ)
さて、「君の名は。」は歴史的な興行収入をあげることになった。
文字通り、きみとぼくの気持ちはセカイに繋がってしまった。
そして、作品はセカイに届いてしまったことで、本来、自分たちの作品が届くはずがなかった人にも届くことになる。
それが今回の作品を作る大きな動機にもなっていたりするらしいんだけど、ポイントとして、今作はセカイ系の基本的な文脈は踏襲しながらも、セカイ系的想像力にケリをつけるような作品になっていた。
ちなみに、ここでいうケリの付け方とは何なのか?というと、それはRADの「大丈夫」という歌に集約されている。
例えば、もし今までのセカイ系の作品だったら、RADの「大丈夫」でいうところの<本当は君が崩れそうなのに君が大丈夫?>って心配するクダリをそのまま主人公は受け入れてしまって、母性的承認を欲しいままにする僕が、そのままご都合主義のままに君に守られて、君は僕のために身を投げ出して遠くにいってしまい、残された僕は一人で勝手にその喪失に涙してしまい、君を失ったまま物語は終わってしまう、と思うのだ。
知らんけど。
でも、『天気の子』はRADの「大丈夫」の歌詞にあるとおり、<君を大丈夫にしたいんじゃない。君にとっての「大丈夫」になりたい>と僕が願い、自立した行動をとることで、その後の運命を大きく変えていく。
実際、この歌によって、新海は物語の結末を変えたとも語っているしね。(どう変えたのかはちゃんと調べてないけど)
ポイントなのは、RADの歌の主人公が、ちゃんと君のことを意識したうえで、意思決定をしたところであって。
昔のRADだったら、君はあくまでも自分の気持ちを語るためのギミックでしかなかったから、もっと横暴な語り口で、君への想いを言葉にしていただけのように思うのだ。(そして、勝手に君を失って落胆しがちだったりする)
でも、この作品におけるRADは、明らかにそれに反した覚悟を持っている。
だからこそ。
表題曲では、<愛にできることはまだあるかい?>と問い、最終的に<愛にできることはまだあるよ 僕にできることはまだあるよ>と言い切ってみせたのではないかと思うのだ。
すげえ拙く言ってみせるなら、RADはきちんと相手の気持ちを考えた上で、選択と決断をすることができるようになったというか。
RADがただのヤンデレバンドである時代を終えたと思うのは、こういう歌を説得力を持って歌えるようになったからだ。
ヤンデレ的というか、視野狭窄的だった昔のRADの歌詞からは考えられないほど、広がりのある言葉が積み上げられている。
僕は、そのように感じた。
しかも「愛にできることはまだあるかい?」は、単に君だけに視座を向けた歌ではない。
この不条理な世の中や社会にも目を向けていて、そんな社会で生きていくうえで、僕と君はどうするのか?という所にまで踏み込み、(主人公が)考え、結論を出す歌になっている。
そして、その踏み込み方は、単に君に対する感情を過激で大げさに言ってみせただけの、RADのそれではない。
本当に君を愛するために必要なことと向き合い、そこに生じる壁を乗り越えるための方法と、そこに対する覚悟に切実に向き合っている。
僕は、そのように感じた。
簡単に言えば、RAD特有の安易な大げさがそこにはないように感じたのだ。
だからこそ、「愛」というスケールの大きな言葉が使われたとしても、ストンと腑に落ちたのだ。
この歌では<愛にできることはなにか?>までは語られないし、具体的なものが見えてくるわけでもない。
あるとすれば、「大丈夫」で歌われる、
君を大丈夫にしたいんじゃない 君にとっての 「大丈夫」になりたい
という覚悟であり、その覚悟がどういうものかは、映画「天気の子」に描かれているので、観ていない人はよかったらみてほしいなーなんて思う。
まとめ
と、つらつら書いてみたけれど、なんかRADの記事というよりも、「天気の子」の記事みたいなオチになってしまった。
別にそういうつもりではなかったんだけども。
では、最後に改めて言い直しておこう。
今のRADに対してシンプルに感じるのは、ひとつ。
それは、精神的な成熟である。
つまり、ヤンデレの曲を振りかざして、「これこそがRADだ!」という時代はもう終わったのだということ。
もちろん、好きという気持ちを過激に描くのはRADの良さだし、これからもそういう技法を使うことはあるだろうが、それだけでは説明しきれない成熟さを今のRADは見せてくれている。
それだけは確かだと思う。
僕にとっては、成熟したRADが何を描こうとするのか、そっちの方が楽しみで仕方ないし、昔のことなんて縛られずに、自由な感性で色んなテーマを描き切ってみせてほしいなーなんて思う。
要はRADはどんどん進化しているバンドだっていう話だ。
Mステの出演もその一つだと思うから、今日はそれを楽しみに拝見したいなーと思う。
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