KANA-BOON、そして谷口鮪が生み出す楽曲の話
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KANA-BOONに色んなことがあった。
結果、メンバーが脱退となり、一度活動休止になった。
そのニュースをみて、リスナーの一人として、何とも言えない気持ちになったし、色んなベクトルで「何にも言えない」が続いてしまった。
それでも、残されたメンバー、もっと言えば谷口鮪が、明確に「人生をかけてKANA-BOONを全うしたいという強い意志」を見える形で、残していることに気づいた。
その言葉を見たとき、どういうスタンスであろうとも、KANA-BOONというバンドを、通常とは異なる角度で見続けるのはどうなんだろうと感じたのだった。
なぜなら、今のKANA-BOONのことを考えるなら、どこまでも谷口鮪の音楽と言葉を大切にしたいと感じてしまうからだ。
そんな谷口鮪は、少し休みをもらった上で、準備ができたら動き出す、ということも言葉にしている。
であるならば、自分としてはその言葉を1番に尊重したいと思った。
どういう態度をとることが「尊重」に値するのかはわからないが、今はただ「そのとき」を静かに待ちながら、適切な距離感で、KANA-BOONの音楽に触れることが、結果として「尊重」になるのではないか、と思うに至った。
であるならば、必要以上にKANA-BOONの音楽に構えた態度をとるのも、変なスタンスでKANA-BOONというバンドのことを口にするのも、良くないのではないかと思うに至った。
そこで、この記事ではこのタイミングで改めて、KANA-BOONの魅力、特に谷口鮪が生み出す楽曲の素晴らしさを振り返えてみたいと思う。
トリッキーではないのに、どこまでも革命的
KANA-BOONの音楽をどこから語るのかは人によって分かれると思う。
が、今のタイミングで作品ベースで振り返るならば、『僕がCDを出したら』にスポットを当てたくなる。
なぜなら、この作品は、どこまでも衝撃的だったからだ。
当時の音楽メディアでは、KANA-BOONの音楽はASIAN KUNG-FU GENERATIONやフジファブリックを参照点に挙げたり、高速化していたボカロソングのビートメイクをひとつの切り口として語ってみせることもあった。
でも、そういう分析って、KANA-BOONの音楽性は口にできても、その作品の本質にある衝動みたいなものまできちんと分解できないよなーと思う。
なんせ、ASIAN KUNG-FU GENERATIONをはじめとする、00年代の邦ロックを青春時代とともにリアルタイムで聴いてきた人間からすると、KANA-BOONが生み出すこのメロディーとビートって、どこまでも革命的であるように感じたからだ。
もちろん、生み出されたものをあとから構造的に分析する分には、いくらでも言葉にすることはできる。
でも、「こういう構造の音楽」の手触りが、まだきちんと形になっていなかったタイミングで、「これ」を生み出したKANA-BOONって、とてつもないし、今聴いても凄いよなと思うのだ。
だって、「こういう構造の音楽」はどこまでも新鮮で、どこまでも刺激的で、だからこそ、当時の若者を熱狂の渦に巻き込んだことを記憶しているから。
やがて、「こういう構造の音楽」は、他のバンドの音楽の構造に影響されていったことも記憶している。別にそういったバンドのすべてがKANA-BOONに影響されたというわけではないが、リスナーの耳にこういう音楽が「慣れる」うえで、KANA-BOONが果たした役割はとても大きいように思う。
いや、ほんと、『僕がCDを出したら』の名盤感って、今聴いても半端ない。
「ないものねだり」はもちろん、以降のどの曲も中毒性が半端ないからだ。
「クローン」「ストラテジー」「さくらのうた」・・・。
どの歌も通じて、一聴するだけでメロディーラインが頭に残る。
さらには、聴けば聴くほどに虜になってしまう中毒的なビートメイクを感じる。
そして、その中心にあるのは、真っ直ぐで人懐っこくて、無邪気(なように聴こえる)谷口鮪のボーカル。
“邦ロック”とはどういう音色・どういうビート感の音楽を指すのか、という認識がある世代から塗り変わった印象があるが、特定の世代において、その認識が変わるきっかけとして、KANA-BOONが果たした存在感も大きいように感じるのだった。
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メジャーデビューを果たしても変わらなかった魅力
やがて、KANA-BOONはメジャーデビューを果たす。
当然、メジャーデビューを果たすと、作品を作るうえでの勝手が変わると思う。
予算感。
タイアップ先の意識。
納期。
関わる人やスケールもきっと大きく変わるだろう。
自ずと、生み出す音楽のテイストも変わるし、バンドによってはその良さが消えてしまうケースがある。
KANA-BOONも作品を生み出すうえで、色んなフェーズがあったことは確かだった。
が、谷口鮪が生み出す、魔法がかかったようなワクワクの音楽、という根本は変わらなかったように思う。
「シルエット」や「フルドライブ」のような屈指のキラーチューンでもそうだし、「フカ」をはじめとした、近年リリースした音楽でも、それは通底していた。
いつだってキラキラしたメロディーがこっちを向いて、耳の中に飛び込んでくる心地。
難しいことなんて考える必要もなくて、一聴するだけで体内でメロディーが踊り出すのだ。
そして、谷口鮪がそんな歌にさらなる魔法をかけてくれる。
そういうことを総じて考えると、谷口鮪は天才なのだ・・・そんな風に言える部分もあるのかもしれない。
ただ、そういう表現は逆に無責任な言葉になってしまうのかもしれないとも思う。
ただ、谷口鮪の音楽が好きな人にとって、きっと谷口鮪が生み出す音楽は、いつだって裏切らなかったし、絶大なる安心感があったことは確かだと思う。。
曲によって好きの濃淡はあるかもしれないが、どの歌だって谷口鮪だからこその根本が宿っていた。
だからこそ、どの歌も、常にKANA-BOONらしい輝きを放ち続けていたのだった。
まとめに代えて
バンドって音楽に対して、こういうアプローチもあるんだぜ!
KANA-BOONの音楽は、そういう新しさとキラメキを体現していた。
特に10年代の前半に生み出した功績は、とてつもなく大きかったし、そこで作った道は今なお続いているように思う。
しかも、近年のKANA-BOONって、中毒性があって耳馴染みの良い谷口鮪らしい楽曲というベースを持ちつつも、円熟した音楽技術でそれを表現する面白さがあって、変わっていないんだけど、変わっていく面白さも感じたフェーズに入っていたのだった。
そして、KANA-BOONは再び次の変化を表明するフェーズに入ることになったのだった。
次にKANA-BOONが動き出すとき、どういう変化が起こるのか、正直なところ、まったくわからない。
KANA-BOONのことが好きだった人ほど、「次の変化」について、きっと色んな感情が渦巻くことにはなると思う。
でも、きっとそれは色んなフェーズを経て、次のより良い未来に繋がるものであるはずだし、谷口鮪が「続ける」という意志を確固として持つというのであれば、適切な距離でKANA-BOONの享受していきながら、今は静かに「それ」を待ちたい。
今はそんな風に、思うのである。
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