衝動的な魅力はどんどん薄れるものだ
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正直な話、前年にベタベタに褒めたアーティストに限って、今年は同じテンションでないこともある。
いや、もちろん、良いは良いんだけどね。
ただ、去年の衝撃と比べると少し衝撃濃度は薄まる・・・といったことは確かにあるわけだ。
これがグループやバンドだったりすると、あとから気づく意外性も多い。
なんせ最初は目立っている人に目が行きがちだからだ。
でも、あとから「実はこいつも相当にヤバイんだな・・・」とか「ボーカルが目立っているバンドだと思っていたけれど演奏も実はすげえ・・・」みたいなことをあとからどんどん気づくわけだ。
複数人でやっている人たちの強みとも言えるのかもしれない。
衝動のジャンルをどんどん変えることができるというのは。
しかし、ソロアーティストだとどうしてもそういう魅せ方が難しい。
なので、曲を重ねれば重ねるほどに衝動濃度が下がる・・・・そういうこともあるわけだ。
藤井風に関しても、そういうアーティストになるのかなーと勝手に思っていた。
良い意味で「きらり」がキャッチーだから、なおのことそんなことを思っていたのだった。
しかし。
その予想は良い意味で大きくハズレることを実感する。
なぜなら、「燃えよ」がこれまたとんでもない楽曲だったからだ。
「燃えよ」の話
「燃えよ」を初めて聴いたとき、ただただヤバイ曲を聴いてしまったと自分は思った。
日産スタジアムもパフォーマンスも歴史的なものだったわけだけど、そういう楽曲以外の要素を切り落としたうえでも「燃えよ」という楽曲は、ぐっとくる一曲である。
藤井風って昨年まではジャジーなテイストというか、<聴かせる>アーティストというイメージが強かった人も多いと思う。
ソウルフルなボーカルだったり、ユニークな言葉選びが話題になったアーティストでもあるため、楽曲を<聴く>ように味わうリスナーをいち早く虜にさせた経緯もあったように思うわけだ。
とはいえ、先ほど述べた「きらり」もそうだけど、今年の藤井風はリズミカルな要素でぐっと楽曲世界に引き込む歌が多い。
そうなのだ。
「燃えよ」におけるリズムアプローチのワクワク感が半端ないのだ。
冒頭のイントロは少しゆったりとリズムアプローチで、横揺れの方が乗りやすいようなリズムを刻んでいく。
一緒に手拍子ができるくらいの雰囲気。
そういうゆったりとした空気感の中、藤井風が優しい歌声で楽曲世界を構築していくのだ。
その流れの中、少しアッパーになった感じでサビに入って、ああ、このまま楽曲が進んでいくのか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・と思ったら、サビの途中でゴリっと表情が変わる。
打楽器のリズムアプローチが変わり、瞬時に楽曲の表情も変わるわけだ。
何がいいって、目まぐるしくリズムが変化しているにも関わらず、藤井風の歌声がどこまでも軽やかだから変な引っ掛かりがないというところ。
車の運転でいえば、アクセスとブレーキの踏み方がどこまでも滑からだから、気持ちよくそのスピードチェンジに体を預けることができるのだ。
アッパーなのに心地よくて、しっとりしているのに体が揺さぶられる。
藤井風だからこそスリリングさが楽曲の中で炸裂しているわけである。
こんな心地よい揺さぶり方をする楽曲、今年の楽曲の中でも数えるほどではないか。
そんなことを思うのである。
なにより、藤井風としてのボーカルの凄まじさを感じるわけである。
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藤井風の凄さ
冒頭の話と繋がるんだけども。
藤井風ってソロアーティストなわけである。
どうしてもある程度作品をリリースすると、この人ってこういうタイプの人なんだ、っていうのが見えてきて、好き嫌いは別にして意外性だったり衝動的な要素というのは薄まってくると思う。
実はこんな隠し玉もあって・・・・という魅せ方はどうしても難しくなってくる。
急にダンスを踊るとか、役者をするとか、そういう別なアプローチで予想外を破るのはあるとしても、表立った活動は絞っているアーティストであればやはり難しいのが実情だと思う。
しかし。
藤井風は、仮に楽曲だけでもそれを達成しているように思うわけだ。
こんな魅了のさせ方もあったのか・・・・
すげえ・・・・!!!!
そんな気分にさせられるわけである。
去年とは違うモードの中、去年のどの楽曲とも違う興奮と感動を味わえる「燃えよ」を聴いて、改めてそのことを感じた。
そういう話なのである。
まとめ
ツアーが開催される。
行きたい・・・ただただ行きたい・・・
今は、そこに尽きる。
きっと時間が経てば経つほど大きな存在になるだろうからこそ、今のうちに観たいとただただ思う。
そんな気持ちと向き合えば向き合うほどに、藤井風がとんでもないアーティストであることを実感する。
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