スピッツの「運命の人」の歌詞について書いてみたい。

作詞:草野正宗
作曲:草野正宗

1番について

さて、一番の歌詞には色々と象徴的かつ意味深なフレーズが幾つか出てくる。

まず、冒頭。

「バスの揺れ方で人生の意味が解かった日曜日」

詩的な感じがなんとなくオシャレで、ステキなフレーズな気がするけども、意味としてぴーんとくるかというと微妙なフレーズだと思う。

要は、わかりそうでわからない感じ。

ポイントはいくつかある。
まず、バスの揺れ方という、日常の代表のような、<とても小さなもの(とても近いもの)>と、人生の意味という、<とても大きなもの(とても遠いもの)を対比させているところにあると思う。
すごく近いところから遠いところに眼差しが向いているわけだ、このフレーズは。
実はこの距離の横断こそが「運命の人」という歌のテーマになっていると僕は感じるのだが、その辺りは後述することにする。
さて、バスの揺れ方の話でいくと、もう一つのポイントは「日曜日」という言葉だろう。

この言葉を使うことで、この人は出勤のためにバスに乗っているわけではないということと、彼がバスに乗って見える景色についても、ある種の言及がなされていることがわかる。

というのも、通勤ラッシュ時のバスであれば、おそらくはサラリーマンとか学生とかがうじゃうじゃしているわけだが、休日のバスであれば、客層がわりとまばらなはずだ。

小さな赤ん坊を抱えた家族連れもいれば、病院に行こうとするお爺ちゃんやお婆ちゃんもいたりして、同じ箱の中で老若男女がひしめき合っているわけだ。

「揺れ方」でその光景の何が動いたのかはわからないが、バスの中にある種の「人生80年」の光景が広がっていたからこそ、この主人公の頭の中で、バスの揺れ方から人生の意味にまで辿り着くことができたのだと思われる。

ところで、「人生の意味」とは何だろうか?

例えば、人生とは結局のところ、未来へのバトンを繋ぐことが最大の目的であり、子どもを作り、子孫を残すことこそが「生きることの意味」と考えることはできないだろうか?

お爺ちゃんがいて、赤ん坊がいて、そのバスが揺れたときの哲学で、なによりも赤ん坊が大事にされていたからこそ、「人生の意味」にぴーんときた的な。

そして、結婚したら夫婦間の関係性より、子どものことに目を向けてしまいがち、的な。

だからこそ、「君は運命の人だから強く手を握るよ」というカップルの絆の大切さを歌うフレーズと、前のフレーズを「でも」という逆接の接続詞で繋げるわけである。

人生の意味は赤ん坊優先なのかもしれない。でも、俺はそれより奥さんを大事にしていきたいな、的な。

なぜなら、奥さんは運命の人だから、的な。

次のフレーズをみてみよう。

また、次のフレーズでは「愛はコンビニでも買えるけれどもう少し探そうよ」と出てくるが、これも分かりそうで意味のよくわからないフレーズではある。

たぶんほとんどの人は、「愛はコンビニじゃ買えないでしょ?」と突っ込むと思うのだ。

じゃあ、逆に考える必要がある。

ここでいう「愛」とは何なのか、を。

コンビニで買える、愛っぽいものを考えると、幾つか出てくる。

例えば、コンドーム。

コンドームを買うということは、そういう営みをするということであり、それは結果として愛と繋がるものだと思うのだ。

簡単に言えば、コンビニだってそういう愛のカケラみたいなものを買うことができる、そういうこと話なのだと思う。

ってことは、この主人公はコンドームはコンビニで買わずに、もうちょっと遠いところで買おうかなーって言いたいのだろうか?

いや、そういうことではない。

これも前述した<とても小さいもの(とても近いもの)>と<とても大きなもの(とても遠いもの)>の関係性に集約される内容だと思う。

コンビニという身近なものから、愛という大きなものへの飛躍。

愛はそれくらい身近な距離にあるものだけど、自分たちの愛はもっと大きなものにしてやろう、もっと壮大なものにしてやろう、みたいな決意を示したフレーズなのではないかと思ったりする。

サビでは、そんな決意をもっと具体的な言葉として述べる。

二人のユートピアとは、おそらく人生そのものを指していて、色んなことを経験したり、乗り換えたりしながら、愛を深めていこうね、という要約。

次は2番についてみていきたい。

2番について

「輝く明日」というフレーズの後に!をふたつ付けているところが妙に可愛い。

ボールという比喩は自分の気持ちを相手に届けるメタファーだと思われるが、その後のフレーズでは、彼女があくびをしたり、自分も涙が出るくらいそれにもらいあくびをしてしまう、という日常感溢れるフレーズが登場する。

この日常感がなんとも言えない。

実は、この日常感と、その後のフレーズで出てくる「悲しい話」も先ほど書いた対比の話と繋がる。

この悲しい話は、色んな意味が内包されているように思う。

仕事がうまくいかなかったとかそういう個人レベルの悲しみも含まれているだろうけど、社会情勢とか不景気とか世界戦争とか、そんな大きなレベルも含んだうえで「悲しい話」と形容していると僕は思うのだ。

少なくとも、構造としてはそうなっていると思われる。

そして、ここでふいに「神様」というフレーズが登場するが、これは大きなもの、遠いものの最大級の言葉だと僕は思う。

この歌におけるラスボス的存在なわけだ。

けれど、これも最終的にはとても近いものと繋げてしまうし、その媒介は「運命の人」が行うわけである。

どういうことか?

ラストのサビの歌詞を見ながら考えてみよう。

ラストのサビと全体のまとめ

二人の愛という、とても近い距離のものを歌いつつ、サビでは必ず地球というとても遠い距離(まあ、ある種近いんだけど)のものを歌っていることがお分かり頂けるだろうか?

また、神様という遠いものの存在を歌いつつも、ユートピアは自力で見つけるという相反する言い方をしているのもポイントである。

これは「運命の人」というのが、そういうものだからである、ということを示している。

どういうことか?

運命の人というのは出会うまでは、それは地球規模というか、神様的存在というか、自分からはとても遠い距離のもののように感じてしまうわけだが、ひとたび出会ってしまえば、(当たり前と言えば当たり前なことではあるが)他の誰よりも近い距離の人になるし、身体をくっつけたりするなど、文字通りもっとも近い距離にいつもいる人になるわけだ。(映画「君の名は」をなんかをみても、そのことがよくわかると思う)

つまり、すごく遠いものとすごく近いものをくっつける存在が「運命の人」であるわけだ。

というより、そういう距離を超越するからこそ、「運命の」人と言えるのかもしれない。

だって、「運命」ってそういうことでしょ?

理論的に考えたら出会う確率なんて限りなく0に近いはずなのに、二人は出会ってしまい、その二人の距離はどこまでも近くなっていくわけで。

だからこそ、この歌は近いものと遠いものを隔てつつも並行するようにして歌ってきたわけだ。

つまり、スピッツの歌詞史上、もっとも構造的に、システム的に描かれたのが「運命の人」という歌であり、だからこそこ、この歌詞は一見するとただの恋愛ソングでありながら、歌詞をみるとどこか捉えどころのない、不思議な魔力に満ち溢れているのである。

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