宇多田ヒカル「ともだち」の歌詞の意味は?解釈と考察、同性の恋愛を思わせる表現とは

宇多田ヒカルの新曲「ともだち」。

小袋成彬とコラボしたこの楽曲。

歌詞の内容を探ってみたい。

*歌詞については他サイトから確認してくださいな。

読んだら一発で感じるやばい感情の匂い。

もともとは「ともだち」だった君を「ともだち」だと思えなくなっちゃう心の変化を丁寧に描写している。(要は友達じゃなくて恋愛対象としてみてしまうということである)

タイトルの「ともだち」を漢字ではなく、平仮名で表記しているのは、主人公の複雑な心情を表現するためであると思われる。

友達が友達じゃなくなるから、そこから意味が抜け落ちて、言葉としての音の「ともだち」だけが残っているサマというか。

さて、この歌には一人称はあえて使われていない。

宇多田ヒカルの歌は基本「僕」か「私」が一人称として使われるのだが、この歌ではあえて使われていない。

理由は明示していないが、この歌の主人公の性別を特定(想起)させないためではないかと個人的には思う(とはいえ、僕を使っているから男、私を使っているから女という分け方を宇多田は別にしてはいないのだが)。

性別や立場をあえて限定しない人物を主人公として扱っているからではないかと思うわけだ。

言ってしまえば、主人公は周囲に明かしづらい切実さを抱えている、という見立てである。

その想像をより強固なものにするため、歌詞における主人公と君の関係性をつぶさにみていきたい。

主人公と君は友達で、笑顔をみれる距離にいるのだが、身体に触れられる関係(具体的にはキスしたい関係)にはなれないし、そんな気持ちを伝えることはできないことが明らかにされている。

でも、これだけの情報ならば、主人公と君は異性の友達であり、親友だからその一歩を踏み出すことができていないと解釈することも可能である。

同性である根拠にはならない。

ポイントは「触りたい」という表現ではないだろうか。

この歌のもっとも特徴的表現である。

一体どこを触りたいと思っているかがポイントであろう。

ハグなんかはいらなくてキスをしたいと願う主人公が触りたいのは。。。

具体的にはわからないが、性的接触を望んでいることは間違いないだろう。

なぜ、その衝動を隠すのか。

男と女という友達なら一線を越えることだってあると思うし、「君の一番になりたい」とまで思うならば、せめて好きである気持ちを告白くらいしてもいいと思うのだ。

けれど、主人公はそこまで気持ちを高ぶっているのに、気持ちを伝えたら嫌われる可能性が高いから、それはしないという。

やはり変だ。

その変を納得させるのは、やはり同性愛が出てくると思うのだ。

そして、性別を限定しないからこそ、読み手によってさまざまな関係性を想定できるフレーズなのだと個人的に思う。

「触る」という言葉にためらいがにじむぶん、相手との関係性や周囲の視線を強く意識している、と読める。

というわけで、「触る」ことすらためらわせる距離感や、性別を限定しない表現を取っているからこそ、「同性愛」を思わせる読みが立ち上がるわけである。

ちなみに宇多田ヒカル本人の発言があるなら、この読みを補強する材料にはなるだろう。

ところで、宇多田はなぜこんなテーマを歌にしたのか。

椎名林檎とのMVが百合的に見えたとしても、宇多田本人の指向をそこから推測する必要はないだろう。

むしろ、これはマイノリティーであること、そして自分がマイノリティー(しかもそれは不利になるマイノリティー)であることを告発する難しさ、世の中が差別で満ち溢れていることを告発するための、非常に社会性の強い歌であると個人的には思うわけだ。

どんな風刺よりも厳しく、人間というものを深く抉るような作りになっているのである。

〈追記〉と色々書きましたが、偏見に満ちた書き方をしている可能性が多々あるかと思います。もし、それによって不快な思いをされている方がおりましたら、ぜひご連絡ください。その際は当該部分は削除・改変などして対応させて頂きますので。宜しくお願いします。