自分の意見を端的に書くと、

・<星野源は「地獄でなぜ悪い」を紅白で歌うべきではない>側の人の意見の中には、論理的に飛躍があると感じるものも一定数ある
・しかし、「地獄でなぜ悪い」を歌うことが、特定の人にネガティブな影響を与える可能性については「大いにある」と考える
・その可能性を考えるうえにおいては、「楽曲に罪はない」というような擁護には、確かに意味をなさないなとは思う。
・だからこそ、様々な考慮をしたうえで、星野源が今回の紅白では「地獄でなぜ悪い」を歌わない判断をしたこと、歌わない判断するにあたって出した文面については、自分は「正しい判断」だったのではないか、と考えている

というような立場。

・この世には様々なを論理を持ち合わせた人がいる
・その論理に正しいも間違いも混在している
・だが、パブリックな場で表現を行う上で、その「様々」に対して、どういう態度を取るかが重要になる局面も大いにあるから

これはどっちかの立場を表明せよみたいな話でもないし、立場を明かさずにややこしいことから距離を取り続けって常にノンポリであれみたいな話でもないと思っている。なぜなら、何を選択するかしないか、何を発言するか何を発言しないかは、確かに注視しているから。あまりんも安易な態度をとったのだとしたら、やっぱりそれを残念に感じてしまうように思うから。

なにより、今回においては、音楽に対して「たかが音楽だ」とは思ってはいないからこその沸き起こった話だと思っている。双方にとって、どこまでも音楽の可能性を信じているからこその判断だったように思うわけだ。

だからこそ、「歌うことを望んでいた人」への最大限の配慮の言葉も添えたうえで、「この場では歌わない」の判断をした。どういう意志でその判断をしたのかも明確な言葉として語られていたことも含め、自分的には「判断として良かった」と思っている。

・それぞれの立場から発言された論理
・双方にとっての”事実”
・歌唱することによる影響
・行動から伝えたいメッセージとは?

全てを総合した結果として、今回はこのような判断をしたのだと考える。

そして騒動にケリがついた今になって思うのは、結果として「地獄でなぜ悪い」という楽曲そのものの存在の大きさや、尊さすらも考える契機になったのではないか?という感触。(つくづく、仮にここで強引に歌っていたり安易な態度の中でこのもやもやを処理していたとしたら、それこそこの歌は特定の論理の中で、”そういう歌”という影響を与えることになったと考えると、それこそ自分としては「最悪」だったと思うから)

ところで、自分は「地獄でなぜ悪い」という楽曲が、とても好きである。

今年、企業案件で「プレイリストを作る」という企画があって、思い入れのある楽曲を挙げるという企画があったんだけど、選ぶからにはガチで選びたくて、無数にある楽曲の中から3曲選ぶことにして、そのひとつに、自分は星野源の「地獄でなぜ悪い」も選んだくらいには、好きな歌だ。

この歌に救われた想いも強くあるし、それだけこの歌が大切な存在だからだ。

だからこそ、この歌が”違うメッセージソング”になるべきではないとは常々思っていた。

明確に違うとわかっているからこそ、感じていた率直な想いだ。

音楽の影響って、何をどうパフォーマンスするかって、自分が想像している以上に大きい。

自分の人生のそれだけ大きな影響を与えているということは、自分の想像とは違う影響を与えることも多いにある。それは良い意味でも悪いでも、作り手から飛び出て起こる話だと思っている。

星野源は、きっとそういう影響にも自覚してきたアーティストの一人だとは思う。

ファンが何よりも目配せをしていて、でもいわゆるファンだけに向くのではなく、もっと大きなものにも目配せしながら活動してきた立場だからこその帰結。

音楽的にもアーティスト的にも常に進化とアップデートを続けてきた星野源故の、流れであり、態度であり、結論だったように思う。

大切にするべきことをきちんと大切にした帰結として、、星野源の音学史の原点を語るうえで絶対に外せない「ばらばら」を歌う意味合いにも、想いを馳せたくなる、そんな今。

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