RADWIMPS「HINOMARU」歌詞の意味と音楽的感想!

RADWIMPSの「HINOMARU」の歌詞がちょっと右翼っぽいらしくて、過激の左翼が絡んできて炎上しているという話を聞いた。

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ライブの日には、ライブ会場近くでデモまでするという話。自分の信条を貫くために行動を起こすことは悪いことではないが「世の中を良くしたい」ならもっとやるべきことあると思うぞ。ってか、普通に色々迷惑だからやめておけ。

香水かけすぎて逆に周りを不快にしているババアと一緒だぞ。もう少し客観的になってほしい。抗議じゃなくてRADを利用して自分の主張を伝えたいだけでしょ?周りがどういう気持ちになるか考えてほしい。

まあ、それはこの際どっちでもいい。歌詞が右翼的なのかどうかと捉えるのは個々の問題だし、その曲が良いか悪いかを判断するのも個々の自由だ。

けれど。

楽曲が楽曲以外の話で盛り上がるのはあまり宜しいことではない。それこそ日本人って自分の頭で考えずに、空気に流されてモノを申す人が多いわけだけど、この歌もそういう空気の中で、作品とはまったく関係のないことばかりが語られ、燃えているような気がする。

「なぜこの歌は炎上したのか?」「この歌は愛国歌としてふさわしいのか?」「ついに野田洋次郎が謝罪したぞ!!!」とか、そんな切り口ばかりで。

そりゃあPV数を稼ぐなら、燃えているところに焦点あてて、さらに燃やしていくのが鉄則なわけだけど、あくまでもこれは音楽なんだから、基本は音楽のことを音楽的な観点から語ってもいいのではないか?そんなことを思った僕は、先日家に帰ってじっくり音源を聴いてみました。で、思ったこと。

ん…わりと普通……。思っていたのと違う…。

例えるならば、童貞が初めてセックスをしたときの違和感。想像していたものとまったく違う感触。期待とまったく違う手触り。

だってさ、すんげえ話題になっているから、てっきり猛烈に強烈で刺激的でアブナイ楽曲に仕上がってるのかと思うじゃん?でも、聴いてみたらそんなに強いパンチ力ねえじゃん!!歌詞だってわりと普通じゃん!!少なくとも燃えるようなことも失望するようなこと書いてなくないですか?

っていうのが率直な感想なんだけど、ここでダラダラ言葉を述べても微妙だと思うので、ひとつずつ章立ててこの歌を考えてみたいと思う。

メロディーについて

この歌の肯定的な感想の意見を拾うと「感動した」っていうものが多い。

つまり、この歌は胸にくる切ないメロディーでした、ってことだと思うんだけど、なぜそのように感じるのだろうか?

僕が聴いて一発目に感じたのは「この歌、ヨナ抜き音階っぽいなあ」っていうものだった。

ヨナ抜き音階とは、ドレミファソラシドと音を並べたときにファとシを抜く(使わない)音階のこと。

これがヨナ抜き音階だ。

ヨナ抜き音階にすると、和風でノスタルジックな雰囲気が出てきやすい。

というのも、西洋音楽はドレミファソラシドの7音階だけど、昔の日本は5音階の概念しかなく、それで歌を作ってきたので、ファとシの音を抜いた5音階で曲を作る方が、日本人の心にくるノスタルジックな歌が仕上がりやすいのだ。

世に放たれている既存の歌でも、和風感が色濃く出てる歌は「ヨナ抜き音階」のものが多い。

日本の歌を海外に移入する際に「アジア感」を出すために、ヨナ抜き音階を使う歌も多い。(例えば、中田ヤスタカなんかはそういうことを意識してやっている)

ちゃんと全ての音を拾ったわけではないし、僕は音感がないので実はファとシを使っている説もあるけども、たぶんこれは「ヨナ抜き音階」だと思うのだ。サビの頭はCコードっぽいし。

で、おそらくこの歌の「ヨナ抜き音階感」は気がついたらそうなっていたというよりは、初めからヨナ抜き音階をベースに作ったと思うのだ。

偶然じゃなくて意図してやった感じ。聴いていて、僕はそう感じた。

で、なぜヨナ抜き音階にしたかといえば、和風っぽい印象、ノスタルジックな雰囲気、そしてそれによる感動を与えたかったからだと思うのだ。

なぜそういうテイストにしたかといえば、この歌が「日本」というテーマを歌うものだったから。

それに尽きると思う。

つまり、この歌は歌詞とメロディーをすごくリンクさせて作っている。

僕がこの歌を聴いて感じたのは、まずそこだった。

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サウンドに関して

和風でノスタルジックにしたいからヨナ抜き音階の歌にしたのだという話を前項で行ったわけだが、この「和風にしたい」という意識は、サウンド面からもヒシヒシと感じる。

この歌は和太鼓のような音で始まり、和太鼓のような音で終わる。(のような、と表現しているのは僕の耳ではそう聴こえるけれど、実際はどうなのかをちゃんと確認していないから)

聴いてもらったらわかるが、この歌、和太鼓のような音が永遠と同じリズムを刻む。こんな感じだ。

\ドッ/ \ドッドッ/ \ドッ/ \ドッドッ/ \ドッ/ \ドッドッ/

そう。このパターンが永遠と続く。(厳密に言えば、32秒から33秒にかけては\ドッ/ \ドッ/っていう打ち方をしているけれど)

\ドッ/ \ドッ/\ドッ/ \ドッ/というシンプルな四つ打ちではなく、\ドッ/ \ドッドッ/\ドッ/ \ドッドッ/というパターンでリズムをうつのは、祭りっぽさというか、民謡っぽさみたいなのを出したかったからだと思う。エンヤーサーサーみたいな。

普通のバスドラではなく、和太鼓感の音でリズムをうつのも、そういう理屈だと思うし。(まあ、同じリズムをループさせるっていう発想自体は、西洋的音楽観ではあるんだけども)

また、打楽器の音色を聴いてみたらわかるけれど、極力、祭りの音っぽくするため、ハイハットの代わりに風鈴っぽい音を鳴らしたり、シャラーンって感じの音(語彙力皆無でごめんなさい)を使ったりしている。

サビ前のシンバルだって、普通のスティックで叩くのではなく、ブラシっぽいスティックで叩き、シャアアアアアアアアアンンンンンって感じの音を鳴らしているし。(一方、サビ終わりのスネアドラムを叩くときは普通のスティックで、タッタッタタタタタタタタタタタタタタ、タッタッタタタタタタタタタタタタタタって行進曲っぽい叩き方をしているところもポイントである)

何が言いたいかというと、打楽器の音ひとつとっても、かなり和のテイストを出すように意識しているね、ってこと。

おまけに、打楽器の音を印象づけるために、1番のベースはサビでしか登場してこないし、2番が始まると、一旦またフェードアウトしているし。ギターのアルペジオも民謡的弦楽器を意識した弾き方をしているし。

音の間合いというか、「静」と「動」って作り出しているのも、能的な日本っぽさを演出している気がする。

2番のAメロ’からジブリ音楽の時の久石譲ばりに色んな音が入ってくるのも、歌詞でいうところ「日本の長い歴史」みたいなものを表現するために施したアレンジなのかなーと思っている。

言いたいのは、細部の全てが全て「日本」というテーマが根本にあり、そこで記した言葉が少しでも伝わりやすいように、アレンジしたんだろうなーということ。

仮に、前前前世のようなバンドサウンドに仕立てて疾走感を与えてしまったものなら、この歌で言いたい「壮大なこと」は壊れてしまうわけだ。

普段のRADならあまり使用しないラッパの音を多用しているのも、それ故だろう。

逆にいえば、ここまでのお膳立てをしたからこそ「なんだか軍歌っぽい」なんて非難を浴びることになったんだろうけども。

歌詞に関して

で、歌詞はどうよ?って話だけども。

左翼が「愛国歌だーなんだー」って叫ぶから、てっきり「御国の為に身を粉にして生きていきましょうね」っていう言葉が踊っているのかと思ったらそういう要素はカケラもなかったし、洋次郎節が炸裂したトリッキーな言葉遊びが展開されているわけでもなかった。

同バンドの別シングル「マニフェスト」では<僕が総理大臣になったら 国旗は君のあの形にしよう>っていう、正気の沙汰とは思えない発言を連発していたあの野田洋次郎が、すごく行儀良く普遍的なテーマを歌っているだけのように感じた。

個人的には、国旗を好きな人のアレにしたいって言ってた人が「やっぱり日の丸の国旗いいやん。歴史あるもんね、やっぱり」って偏向的態度を取ったことの方がモヤっとする。叩くならこのことを叩いてほしい。いや、そういう話でもないですか。そうですか。

そもそも昔から野田洋次郎はちょっとバグってて、正気の沙汰とは思えないフレーズ作りのデパートみたいなところがある。「五月の蠅」なんてマジでシラフで書いたと思えないフレーズのオンパレードだったし。知らない人は一度でいいから読んでほしい。

恋愛ソング以外もたいがいで、その味噌汁’s名義でリリースした「ジェニファーやまださん」では<爆弾抱えて首相に会って目の前で吹き飛びたい>と言ってるし、しかもそれをRAD名義でわざわざきちんと収録しなおしているし。

野田洋次郎って「国旗を君のアレの形にしたい」とか「首相の前で爆弾かかえって吹っ飛びたい」とか、恋愛ソングであれ恋愛ソングじゃないものであれ、対象をあえて「過激化」して表現するタイプの作詞家なわけだ。

映画監督の園子温なんかもそういうタイプだけど、感情も対象も全て「過激化」して表現してみせることで、逆にそこに宿る繊細さみたいなものを浮き彫りにする、そういうややこしい表現法を多用するタイプなのだ。

「前前前世」がRADっぽくないと言われた所以のひとつとして、野田洋次郎による表現の過激化が行われていなかったから、というのはある。爽やかすぎたというか。

そんな洋次郎が「日本」をテーマに歌を作ったら、こうなったら、それだけの話なのである。

まあ、僕は逆に、どれだけ過激な言葉が踊っているのだろうと期待して聞いてみたら、わりと普通だったので、がっかりしたんだけども。

今となってはツイ消しされてしまったが、リリース直後は野田洋次郎はこのようなことを述べていた。

お。なかなか覚悟あること言うやんっと思っていたらいつの間にかこんな事態に。

うーん。やっぱり、謝らなくてもいいとは思うんだけどね。

でも、これ、 って謝っているようで実は謝っていないし、洋次郎はある意味で何一つ妥協していないから、わざわざこんな文章をしたためたのだと思う。

どういうことか?

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この歌のメッセージとは?

先ほどの洋次郎のコメントってまさしく「傷ついた人がいたなら謝る」ってそれだけの話なのである。

だから、この謝罪に対して「表現の自由が〜」とか「表現者が謝るのはおかしい〜」とか書いている人を見かけるが、個人的な意見を言わせれば、その指摘は微妙にズレてるように感じる。

インスタとTwitterで洋次郎はコメントを発表したらしいが、このコメント、日本語ではなく先に英語のものが掲載されている。

なぜだろうか?

RADというバンドは「君の名は。」という映画が世界的にも大ヒットしたおかげで、世界にもバンドの名前が広まった。アジアツアーも控えている。

そのタイミングでこんなタイトルの歌が発表された。

聴いてみるとヨナ抜き音階による和とノスタルジーを意識したサウンド作りに、哀愁あるラッパの音と、壮大なコーラスという特盛セット。

それ故になんだか「いつもとは違う雰囲気」を感じてしまい、タイトルに引っ張られて「戦時中の軍歌」を連想し、不快な気分を感じた人がいた。

ただ条件反射のように「右翼だ!右翼だ!」と文句をたれる輩が現れるくらいなら「この歌は鏡であり、今のあなたの姿が本当の姿なんですよ」と言い洋次郎は退けたと思う。

けれど、どうもただ条件反射で喚いている人だけではないようだ。

第二次世界大戦の時に多くのアジアの国は日本帝国軍に攻撃されて、占拠されていた間は日本の旗を目にして「日本の旗=日本帝国軍」の連想がある人もいる。(海外にはやはりそういう人がいる)

海外の人だと自分の意見は伝わりづらいし、自分が日頃どういうスタンスで音楽を鳴らしているかを知らない人も多い。

日本語ゆえに歌詞をちゃんと読み取ることができず、曲名と音楽の印象とネットの反応をみて、間違った方向へ想像をはためかせ、辛い感情を思い起こした人もいるようだ。

自分とは違う文化、違うテクストでみて、ある種ピュアな気持ちで傷ついた人もいるようだ。

洋次郎はそういう人がいることを知り、それは自分の意図と違うし、意図とは全然違う形で傷つけた人がいることがショックだったから、ああいう形で言葉を発表したのだと思う。

特に歌詞のニュアンスが伝わりづらく、自分たちのことをまだあまりよく知らない、海外の人を優先しね真意を伝えたかった。だから、先に英語の文章を発表した。

黒塗りをみたら黒人差別を連想してしまうのと同じように、あるいはヒトラーを連想させるアイコンがタブーなように、確かに日の丸というアイコンで反応してしまう人がいる。改めて、洋次郎はそれを実感したからこそ、そういう「本当に傷ついた人」に向けて言葉を述べたのだと思う。

だから、PV稼ぎのために煽るメディアや、ゴッチが言うところ「自分が言いたいことを利用するためだけの文句を言う人」に向けては、洋次郎は一切謝っていないし、謝るつもりもない。

少なくとも、僕にはそうみえた。

洋次郎は傷つけた人がいたなら謝るし、それは誤解であり、自分はこういうメッセージを込めて歌を作った、そのことだけを淡々とあそこで述べた。

僕はそう解釈している。

ちなみにこの歌、国のことは歌っているけれど、別に国家のことは歌っていない。

ここの線引きはきちんとしておくべきだ。

国=国家ではない。もちろん、国歌がアイデンティティの人にとっては、国を歌うこと=国家のことを歌うという安易な想像になるんだろうけども。

そもそも、洋次郎の日本というモノに対する考え方はむしろ味噌汁’sの「にっぽんぽん」の方が色濃く反映されているような気がするし。

そんな日本人だけど、日本人であることに誇りを持とうと歌ったのが「HINOMARU」なんじゃないかなーと。

ってことまで考えると、愛国歌どころか、別に日本のこと自体を歌った歌ですらない気がするし、政治の歌なんて見当違いにもほどがあるわけだ。

話は変わるけども、国のことを歌った歌、という意味ではポール・サイモンの「AMERICAN TUNE(アメリカの歌)」という歌が有名だ。

この歌も、歌詞だけ読めばアメリカ万歳!な歌になるわけだけど、内実は、愛憎入り混じた感情を持ちながらも、それでも国に対しての愛情や誇りを歌った歌である。

ちなみにこの歌も、言葉がしっかりと届くようにメインのメロディはバッハのマタイ受難曲に含まれるものを借用しており、それにより哀感の漂う曲調にしている。

この辺りも「HINOMARU」とすごく似たような構造である。

明言はしていないけれど、洋次郎もたいがい幅広い音楽に精通しているはずだから、「HINOMARU」をつくるうえで、絶対にポールサイモンのこの歌も参照にしていると思うのだ。

もしかしたら、ポールサイモンのこの歌の日本バージョンを作りたいと考え、構造だけはそのまま抑えたうえで、各要素を、和風のパターンに置き換えたものが「HINOMARU」という歌なのではないか?とすら感じてしまう。(知らんけど)

そもそも、なぜこのタイミングで、国のことを歌う歌を作ろうと思ったのだろうか?

おそらくは、W杯のタイアップを受けたからではないかと思うのだ。

日本人が国旗を掲げながら日本のとこを意識する数少ない瞬間、それがW杯なわけだ。

逆に言えば、そういうことがない限り、国のことを意識しないし、国のことを誇ろうとしない日本人が多い。

そのことに思うことがあったから、こういう歌を作ったのではないか?

まあ、洋次郎のことはよくわからんので、この辺はただの深読みだけども。完全なる。

ただ、これだけは言える。

ひとつのコンセプトに対して、歌詞・メロディー・サウンド・リズム全てを統一させてひとつの音楽を作り上げたRADの美意識の高さは脱帽するばかりだし、そういう意味でこの歌は「良い歌である」ということ。

曲に込めたメッセージという意味では、洋次郎が発表したコメントが全てなのだと思うし。

ちなみに僕は日本の国旗に胸震わせる洋次郎より、国旗の形を君のアレにしたいと、エログロなる妄想を爆発させてテンション上げてる洋次郎の方が好きです。

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