配信ライブで観たKing Gnuのフジロックのライブ

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自分は正直、あんまり配信ライブ、というものは観ない人間である。

配信系コンテンツに限定すれば、音楽ライブよりもお笑い系コンテンツにお金を払うことの方が多いかもしれない。

(音楽ブログをほぼ毎日更新しているくせに)そんな人間である。

まあ、配信ライブを観ない理由は、いくつかある。

そもそも、配信ライブは観てしまうとキリがない。

追いかけないと・・・というテンションで配信ライブを観ていたら一生時間が足りないので、よほどの理由がない限り積極的には観ないようにしていることがある。

さらに言えば、家で音楽を聴くなら「ライブ」じゃなくて「音源」でいいかなーと思ってしまうところもあったりする。

なので、配信ライブはあまり観ないようにしていた。

そういう意味でいうと、フジロックの配信についても元々は観るつもりはなかった。

というのも、元々この週末は私用があって配信ライブは観れない環境になるはずだったからだ。

んだけど、その予定がなくなったために気がついたらフジロックの配信ライブを観ている自分がいる、という現状。

まあ、そんな前置きはどうでもいいとして、やっぱりライブの魅力、という観点だけの話をすれば、「配信」より「現場」で観た方が凄い、と思っているフシはある。

音の分厚さだったり、パフォーマンスを観るときの視点のあり方だったり、現場でしかない感動がそこにはどうしてもあるし、配信では削ぎ落とされてしまう要素がたくさんあるからだ。

なので、根本的に「生のライブ」と「配信ライブ」はまったくの別物であり、同じラインにのせて語るものではない、とはずっと思っている。

ただ。

仮に「生のライブ」と「配信ライブ」を同じ俎上にのっけたとしても、遜色なく凄いといえるライブが今回のフジロックの配信にあった、というのがこの記事の冒頭の話となる。

で、それがKing Gnuのライブだったのだ。

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King Gnuのライブの凄さ

そのライブの何がどう凄かったのか。

この記事では、そのことに書こうかなーと思いつつも、いや、もうソレを言葉にはできんなーという思いもあって。

ただ、King Gnuは改めてとんでもないバンドになったんだなーと、ライブ中、ずっと実感していた。

メディアに取り上げられることが増えてきたバンドである。

良いも悪いも含めて<広告>的な立ち位置を担わされることが増えて、たくさんの人の目に触れるからこそ様々な意見を目にしたり背負わされたりするバンドになった。

その中で様々な想いを宿らせることになったんだけど、その全てがパフォーマンスとしては良い方向に注がれているような、迫力と凄まじさがそのライブにはあったように思うわけだ。

美しさと力強さを兼ね備えた、透明感のある彫刻刀のような響きを持つ井口理のボーカル。

安定感と躍動感を併せ持つ新井和輝のベースライン。

King Gnuの楽曲がかっこよさと安定感の両方を強く体感できるのは、勢喜遊のドラムアプローチがあるからこそ。

そして、そんな個性派揃いの集団でありながらも、その中で圧倒的な存在感を示す常田大希の存在感。

このバンドだからこそ、時に繊細で、時に大胆に繰り広げられるパフォーマンスに惹き込まれていく。

「飛行艇」のような、どっしりとした歌が幕開けたかと思えば、

「千両役者」のようなミクスチャー成分の強いアグレッシブなナンバーを披露する。

・・・かと思えば、「白日」のような繊細そのもののような歌を歌う。

・・・かと思えば、大衆的なバンドの表題曲とは思えないような「泡」のようなスタイリッシュで、アーティスティックな歌を披露する。

<振り幅が広い>では説明がつかないようなカラー違いの楽曲を、圧倒的な強度でパフォーマンスしていくわけだ。(ここに前日、前衛的なパフォーマンスをしたミレパの話を加えていけば、よりカオスなことになるんだけど、ミレパについてこの記事では割愛する)

聴覚から伝わるパフォーマンスそのものだけでも圧倒的といって差し支えないのに、視覚から入る情報・・・例えばパフォーマンスする佇まいだったり、ステージングだったりの説得力も段違いなのである。

その中で差し込むMCの内容も自分的には、ぐっときた。

自分たちの立ち位置を受け止めた上でのもので、そりゃあそこから当然ながら批判は生まれても仕方がない状況の中で、<それでも>を踏まえて、率直に思っている言葉を紡ぐ姿は、胸に響くものがあったのだ。

・・・・・・なんて言葉だけを書いただけでは「で、何が凄かったの?」と反乱されそうではある。

が、いっときも目を話すことができないような、良い意味での緊張感がそのライブには途切れることなく、ずっとあったのだった。

大衆的な立ち位置のバンドであることを受け止め、その名に恥じないようなパフォーマンスをする姿が、どこまでもかっこよかった・

・・というところに帰結してしまう。

まとめ

自分的には、感動をしたから結果オーライやん、みたいな意見はあまり好きではない。

感動のライブをしたんだから、フジロック、開催してよかったやん、みたいなところにそのまま着地させるのは、ちょっと違うのかなーとは思う。

目の前に横たわる問題を透明にしてしまうための道具としてだけ、音楽が機能してしまうのだとしたら、それは良くないことだと思う。

逆にいえば、King Gnuのライブに宿る感動は、上記のような感動とは自分的には性質が異なるものだったと思っている。

フジロックでのライブが終了した後、常田がツイートしていた内容が妙に胸に残っている。

 

きっと、あの日のKing Gnuのパフォーマンスに救われた人ってたくさんいると思う。

ここでいう「救われた」をどういうふうに汲み取るのかはちょっと難しいけれど、きっと単純に<背ける>とは違う感動がそこにはあったのではないか、と自分は思っている。

例えば。

ネガティブな話題が反乱すると、どんな人も視野狭窄に陥ってしまう。

自分の感覚が悪い方向に引きずり込まれて、<論理的>に考えているつもりでも気がついたら<極端>に振り切れてしまう人もいる。(これは音楽好きでもそうじゃない人も、なんならアーティストにも見かけることである)

しかし、そういう視野狭窄を打破して、確かに視界を広げてくれるような心地が、King Gnuのパフォーマンスにはあったように感じるのだ。

自分は無力だと思っていたけれど、救われた。もう少し現実を直面してちゃんと目の前のことと向き合おう・・・そんな人がいたように思うわけだ。

音楽に社会的な意味があるとすれば、きっとそういうことなのではないか、みたな回答のひとつがKing Gnuの音楽には確かにあって、その中に感動というものが確かにあった・・・みたいな感触なのである。

まあ、アーティストに(その人が抱えるべき内容以上のもの)を背負わせたり、自分の意見を強化するために利用する態度もどうかと思うので、自分はそう思った・・・という話にできればなーという話。

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