前説

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King Gnuの新曲である「三文小説」。

一発聴いて、おったまげた人も多いと思う。

なんというか、とにかく色んな意味でパンチが強い歌だった。

というのも、昨年、そして今年の頭にリリースされた楽曲はわりとキャッチーな歌が多かった印象の強かった。

でも、今作はそういうキャッチーを更新していくというか、King Gnuってこういう感じの歌をこういうふうに歌うバンドでしょ、という固定概念を揺るがすようなエネルギーを持っていたと思うのだ。

改めて、King Gnuって「キャッチー」って言葉で片付けるには、あまりにも個性が強すぎるバンドだなーと感じた。

一面的な言葉で簡単に語ることができるバンドではない。

「三文小説」を聴いて、改めてそのことを感じさせられたのだ。

そこで、この記事では「三文小説」について書いていきたい。

本編

印象深いハイトーンボイス

この歌も、ほぼほぼ歌い出し始まりの構成となっている。

歌い出し始まりはKing Gnuのお家芸みたいなところがある。

イントロがないのはサブスク的にそっちの方がいいから、みたいな語りをするライターもいるけれど、King Gnuの場合、どんなイントロよりも井口のボーカルのフックが強いからそういう構成になるのかなーと思っている。

実際、今回の冒頭の井口の歌声の存在感、やばいくらいに強い。

千鳥のノブのツッコミのワードになりそうなくらいに、存在感が強い歌声なのである。

人によっては女性ボーカルの歌だと思ったと言わしめるほどに、ハイトーンに磨きがかかっている。

近頃、ハイトーンボイスを売りにしているバンドは増えた。

ただ、そういうバンドが増えると、ハイトーンそのものはよくある魅力のひとつになっていく。

そうやって「ハイトーン」がコモディティ化していく中でも、King Gnuはそのハイトーンで差別化をはかっていく。

そういう強さがあるし、聴いた人の多くもそう感じたのではないだろうか。

だから、歌い出し始まりの歌にすることに躊躇がないのだろうし、実際それは圧倒的な切れ味になっている。

そしてそれは、圧倒的な才能と想像もつかない研鑽の果てにたどり着いた境地なのだろうなと思うのである。

冒頭の歌い出しひとつとっても、明らかな差別化がはかれてしまっているところに、King Gnuのバンドという凄さと努力の凄まじさを実感させられたのだ。

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不気味さを感じさせる楽曲展開

「三文小説」は冒頭の音数が比較的少なめである。

特にギターやベース、ドラムなどのバンドサウンドはあまり積極的に音の中に介入してこない。

機会を見計らいながら、作り上げた音の中に自分たちの音を足していく感じ。

逆に言えば、バンド以外の音を印象的に響かせることで、今までのKing Gnuの楽曲とは違う響きをもたらせていく。

「三文小説」はどことなくオーケストラ的な雰囲気がある。

ドラムの音使いも、ロックバンドのそれというよりはマーチングバンドっぽい雰囲気で魅せてくる。

スネアドラマの響きや、タム回しで作り出す豪快な感じにも、そういう要素を覚えるのである。

そういう今作ならではのサウンドアプローチをあえて言葉にするならば、「不気味」という言葉で言い表したくなる。

実際、自分はこの音使いに「不気味」なものを感じたのだ。

鍵盤でもちょっと怖い感じの音を奏でている感じがするし、美しさと独特を巧みに混ぜ込みながら楽曲を展開させているそれは不気味な美しさを感じるのである。

アルバムでもそうだけど、King Gnuって全体をみてから、部分に配置させるような構成が上手い。

どういうことか。

例えば、フルアルバムでは全体のバランスをみて的確なタイミングでインスト曲を配置していく。

こうすることで、全体のメリハリをつけて全体の完成度を高めていく。

全体の構想ができているからこそのアプローチだと思うし、作品性を大事にするKing Gnuだからこそできる芸当なんだろうなーと思う。

楽曲でも、そういう全体を意識したうえでの部分の配置の巧み、を感じるのである。

引き算と足し算のコントラストが鮮やかに感じられるのも、そのひとつ。

ここがしっかりしているからこそ、楽曲がよりドラマチックな仕立てになっていく。

そんなふうに感じるのだ。

この歌でいえば、ドラムが展開を作るうえでかなり重要なアクションを持っているなーと思う。

一番のBメロからドラムが存在感を魅せるけれど、ここでドラムが入ることで楽曲の表情がガラリと変わる。

あるいは、ラストのサビ前の間奏でもドラムは存在感を魅せていく。

どういう音を鳴らし、最後のサビにどういう「渡し」をしているのかを聴けば、きっとここで言いたいことがわかってもらえると思う。

歌メロ重視のバンドってリズムはシンプルで、なるべくボーカルを目立たせるために透明化をはかることも多い。

けれど、King Gnuって良い意味でバンドアンサンブルも存在感を魅せる。

だからこそ、楽曲の中で、どんどんどんどん楽曲の盛り上がりを更新していくのだ。

井口のボーカルが圧倒的なフックにはなっているんだけど、それだけではない、もっともっと楽曲の魅力があることを気づかせてくれるのである。

独特のサウンドとキャッチーの融合

この歌を評すると、女性のような美しい歌声がまずは大きな引っ掛かりとなる。

実際、ここだけを膨らませても記事一本書けるくらいに、魅力あふれる展開となっている。

ただ、King Gnuの楽曲において、「それ」はあくまでも導入でしかない。

それがこのバンドの凄さである。

というよりも、細かく見ていければ見ていくほどに、言いたいことが溢れてくる音楽を魅せてくるわけだ。

その人が持っている眼差しごとに、違った個性と魅力が浮かび上がってくるというか。

受け手によって、楽曲の面白みの種類や数が変わっていく、とでも言えばいいだろうか。

そういう意味でいうと、King Gnuの音楽はアート的とも言えるかもしれない。

平面ではなく、立体的な面白さが楽曲の中に転がっているから。

なぜ、そういうことが可能になるのか。

それは、常田がいて、井口がいて、新井がいて、勢喜がいるから。

この四人だ圧倒的なレベルで、アウトプットしていくから。

だから、このバンドだけのアンサンブルがそこにあるのだ。

ここでいう「アンサンブル」とは、単に担当楽器の音が混じり合う、という意味だけではない。

もっと、多岐にわたる混じり合いが、そこにあるのだと思う。

そして。

「三文小説」もまた、そういうKing Gnuの個性が爆発した一曲であるように思うわけだ。

まとめ

やっぱりKing Gnuの楽曲にはワクワクさせられるっぱなしになる。

そのことを改めて感じさせられたのだった。

常田曰く、まだまだ世に出ていない楽曲があるということ。

一体裏ではどんな楽曲の制作がされているのか。

今はただ、それが楽しみで仕方がない。

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