フェスがある種のメディアになった!みたいなことをいう人がいる。

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確かにラジオ局や雑誌が企画屋として入っているフェスが多く、フェスと他のメディアが結託しながらフェスを作り上げ、日本の音楽シーンを盛り上げようとしている空気はある。

特にロッキンやCDJは集客数が大きく、他ジャンルのアーティストも積極的に招聘することから、ライブハウスの延長線上というよりも、ある種のメディア的な色合いが強くなっているということはあるだろうし、メディアと現場の交差点として、BUMPがCDJのステージで紅白に出演というのも、CDJ=現場のメディア、というイメージを印象付けたのではないか?と思ったりもする。

けれど、ロッキンやCDJが幾ら「メディア」であると言ったところで、その力やはり知れているなーとも思う。

なぜか?

まず、このフェスに来るタイプは、ざっくり言えば2タイプに分けられる。

ひとつは、能動的に音楽を聴き、他のフェスにも積極的に参戦しているタイプ。

このタイプは、ラインナップしているバンドはわりと幅広く認知している。

もうひとつは、ラインナップしているバンドはほとんど知らないが、一部のアーティストがものすごく好きで、そのアーティストを観るためにこのフェスにやってきたタイプ。

このタイプは、ルール違反やマナー違反でSNSに晒されることが多い。

前者の場合は、予め自分の中でこう回ろうというタイムテーブルを決めて、観たいアーティストをザッピングするような形でフェスを楽しむことが多いだろうし、後者の場合は、お目当てのアーティストのためにスケジューリングするし、場合によっては地蔵になることだって辞さない覚悟でフェスを楽しむと思われる。

そして、前者も後者も「観たい」と思わせるアーティストこそが、ビッグアーティストということになるのだろう。

今年ならB’zなんかが、まさしくそれだと思う。

B’zをはじめ、ほとんどのビッグアーティストは別のメディアで話題となったからこそ、幅広い層に認知されることになったのだろうし、他メディアで話題になった人がフェスにやってくるということで、そのフェス(つまり、ロッキン)が盛り上がっているという構造があると思う。

つまり、他のメディアで盛り上げたものをフェスの現場でもおこぼれをもらうような構造があるような感じもする。

そこまで考えると、ロッキンやCDJ的な「メディア」なんてちっぽけなものであり、他メディア(特にテレビ)の影響力は今尚絶大であるということを改めて感じたりする次第である。

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もちろん、今年のロッキンのトリで言えば、サカナクションなんかは、地道にライブやフェスで実績を積むことで評価されたバンドだし、フェスのパフォーマンスが圧倒的だからこそ、その人気を不動にしたバンドだと思う。

が、逆に言えば、サカナクション以上に、フェスのパフォーマンスでより名を馳せたバンドなんているっけ?という話になる。(そして、僕の記憶の限りでは、この5年の間ではそんなバンドはいないように思う)

それ以外のバンドは結局のところ、ライブやフェスの活躍よりも、他メディアとのタイアップにより名を馳せ、その地位を築きあげたイメージが僕にはあるのだ。(もちろん、異論は多々あると思うが)

さて、そんな中、今年のロッキンの感想レポートを読んで、興味深いなーと思ったことがひとつある。

桑田佳祐が二日目のヘッドライナーとして出演したわけだが、このセトリがわりと暗めな楽曲が多かったため、賛否両論巻き起こったというのだ(ちなみにB’zは良い意味でベタなセトリだった)

もちろん、桑田佳祐のファンなら満足するセトリだったのだろうが、ライトなファンにとっては知らない曲ばかりだから、もっと知ってる曲やってよ!という気持ちになったのだろう。

有名なアーティストを観たい心理って、各自色々あるとは思うが、大方の心理としてこうだと思う。

まず、テレビでしか観たかったことがなかったあの人が、現実に存在していることの確認。

その確認が済めば、その後は、ライブパフォーマンスが云々とか、そのアーティストの演出が云々とか、そんなものは一旦はどうでも良くて、「自分が知っている有名なあの曲が演奏されるかどうか」の一点に集約されるのではないかと思うのだ。

変な話、自分の知らない楽曲(新曲だって同じこと)には用はなくて、知っている曲さえやってくれたらテンションが上がるわけだ。

アーティストを観るときの物差し、テンション上げるための物差しですら、マスメディアが敷いた価値観の上に成り立っているのではないか?という話である。

ほとんどの人は、プロモーションされまくって知っている曲を聴くことさえできたら、わりとそれで満足しちゃうものなのである。

これはB’z、桑田佳祐に限らず、どんなレベルのバンドでも同じことだと思うが。

結局のところ、フェスで明らかにしたのは、音楽は未だにプロモーションと結託しているジャンル・文化であり、そこにコミットできれば勝利しやすというもの。

ほとんどの場合、それはテレビとその周辺を取り巻くコンテンツになるわけだが、必ずしもテレビに関するコンテンツではなくてもいい、ということを証明したという意味で、RADWIMPSの「前前前世」の功績は大きいと思う。

ちなみにこれは、邦楽シーンに限らず、洋楽だって同じことである。

昨年、サマソニでレディオヘッドが出演したが、観客のほとんどは新曲なんて前座であり、90年代の楽曲を聴きにきたと言わんばかりのスタンスでパフォーマンスを観ているようにみえた。(だからこそ、クリープが披露されると、テンションがピークになってしまうわけだ)

そりゃあ、知らない曲よりも知ってる曲の方が聴いていてテンションは上がるだろう。

でも、それってつまり、音楽はプロモーションありきのもの、ということを宣告しているような気がしてしまうわけだ。

初見だとしてもテンションが上がったり、もっと純粋なレベルで音楽に衝動を突きつけられる感覚が生まれたらいいのになーなんてふと思う。

そして、ロッキンやCDJがそれを達成できたとき、ロッキンやCDJは「メディア」になったと胸を張って言えるのかなーと、そんなことを思ったりする。

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