昔は新譜がリリースされると、CDのレンタル屋さんに足を運んでいる自分がいた。

自分の最寄りのレンタルショップだと、CD5枚借りる場合は4枚の金額でレンタルできるというサービスがあった。だから、聴きたいCDを何曲も積んで、レジに並び、一気に服枚のCDをレンタルをしたのだった。

音源を買うほどに好きなアーティストであれば、間に合わずにお金を出して作品を買う。だけど、とにかく作品が聴きたい、まずは音源をフルで聴きたい、話はそこからだというアーティストの場合は、兎にも角にもまずはレンタルしていた自分がいた。それが日常だったし、それがとても楽しかった。

インディーズだと、CDがレンタルされないことも多かったから、お金がない学生のときは、買うかどうかに悩むこともあった。だから、聴きたかった音源を友達が買ったら、ちょっと借りさせてもらって、聴くこともあった。古となったMDプレイヤーに録音なんかしちゃって。

あー懐かしい。

だが、今はインターネットひとつで世界中の音楽に簡単にアクセスできるようになった。月額1500円ほどの課金で、聴きたい音楽は無限に聴くことができるようになった。そもそも、YouTubeに行けば、課金せずにアーティストの新譜の作品に簡単にアクセスできるようになった。おすすめの精度も高くて飽きずに聴き続けることができる点も秀逸。そうこうしていると、行きつけだったTSUTAYAは潰れてしまった。

いやね、自分が学生の頃も、インターネットで無料で作品を聴く、という「技」はあったなーなんてことを思う。

でも、当時のそれは違法なものとして存在したわけで、今とは異なる価値があった。

「フリー」であるものには、それなりのリスクがあるけど、どうする?という前提が、インターネットで漂う場合には付き纏っていたし、YouTubeにフルの新譜の音源をアップしたり、サブスクで全ての楽曲を配信する人が少数派だった。そんな時代だったからこそ、ニコニコとかでクオリティの高い音楽を踏み出すボカロPに熱狂的な支持が集まった・・・みたいな背景もあったのかなーなんてぼんやりと思う。だって、当時の有名ボカロPと同じレベル感の才能を持ち合わせた人が今の世にいたとしても、今ならわりと「埋もれる」ケースだってある気がする。才能の平均値が上がっている印象。ボカロに限らず、バンドシーンとかでも、そう思う。だから、インターネットと紐づいた今の音楽シーンは、群雄割拠だなーなんて思う。

まあ、そんな話はどうでもいいんだけど。

ただただ思うのは、音楽まわりの様相が変化することで、自分と音楽の距離感は変わったなーということ。

それって、良い面もあるし、悪い面もある。なんなら、自分は良い面をたくさん活用している側だとは思う。

けれど、音楽に対するワクワクを相対するのであれば、年齢とか経験の差もあるとはいえど、わざわざTSUTAYAにレンタルしていた頃の、今では考えられないほど不便で、手間で、面倒で、非生産的な音楽の聴き方をしていたあの頃のワクワクには勝てないなーと感じる自分がいる。

今って、とても「便利」だ。

でも、音楽のワクワクは、「便利」とは違うところに、確かに存在しているんだよなーという感覚がある。

話は変わるが、郊外のフェスに参加するという嗜みも、意図的に「不便」に身を置くからこその有意義さを体感できるものだよなーと思う。

だって、ただ観たいアーティストのライブを、コスパよく、快適に、効率的に観るのが正なのだとしたら、郊外で開催されるフェスって、その逆をいくケースが多いからだ。

もちろん、「フェスなのに快適」をベネフィットにしているフェスも増えてはきている。

が、仮にどれだけフェス側が生産的なものにしたとしても、シャトルバスは混むし、それを避けるために車で来ても渋滞に巻き込まれるし、必ずしも費用対の良くないフードにめちゃくちゃ並ぶことは避けられないし、暑いし、喉乾くし、肌も焼けるし、ゴミゴミしていてしんどいし、人気のアーティストが室内のステージでライブをするときは入場まで死ぬほど並ばないといけないし。

つまり、非生産的な要素を上げたら、枚挙にいとまがないわけだ。

が。

多くの人は、いいじゃん、フェスはそういうものなんだから、って思う気がする。たぶん。

そういう部分も含めて、フェスは魅力的だからだ。

好きなアーティストのライブを観たいという大前提はあると思うが、それ以外部分、あえて言えば「レジャー的な要素」に魅了される部分もあるからこそ、大型フェスに足を伸ばす、という人は今でもそれなりにいると思う。

なんなら、そういうロケーションで観るライブだからこそ、格別なのだという考えの人もいることだろう。

「便利」とは違うところにある音楽のワクワク。

その形を体現している、ひとつの要素が、今のフェスにあるのかもしれない。

まあ、フェスにおいては2025年以降、暑さ対策をどうしていくのか?を考えなくてはならないフェーズに入るだろうし、そうなると今とは違う形、段取りを組むフェスが誕生するはずで、いつかは今あるフェスとは違う形になる変化する可能性もある。

そうなる頃には、「便利」の側に近づく可能性もありうる。

そしてその頃には、”フェス”なんて不便なものを楽しむなんて時代遅れだなあ、という言説が出るのかもしれない。

サブスクが当たり前になった今、音楽を聴くためにわざわざレンタルショップに足を運んでいたことが、今振り返ると、信じられないほど非生産的な挙動に見えるのと同じように、「フェス」の捉え方が変わる時期がくるのかもしれない。

当時のキラメキが、必ずしも将来にも受け継がれて輝くわけではないし、文化って、時代の切り取り方で、見え方が大きく変わる。

音楽の聴き方においても、ライブの楽しみ方においても。

そこに良い悪い、はない。

でも、同世代に同じ文化にハマっていた人間だからこそ共有できる、あの時の「あれ、めっちゃワクワクだったよね」の感触は、どうしようもなく確かにあって、ちょっと生きる時代がずれると途端に共感性が乏しくなるような強固輝きを放っていて、音楽って常にそういう刹那的な魅力を抱えているからこそ、面白いし、ずっと追いかけたくなっちゃうし、歳を重ねてもうだうだ語りたくなる。

「毛」が生える前から熱中していて、「毛」が生えてからも熱中し続けるからこそ気づく、なんとも言えないその感じ。きっと「毛」が抜けても、同じような感情を抱くのだろうなーなんてことをぼんやりと感じた、そんな夜。

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