米津玄師の楽曲がいつも期待を越えていく

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米津玄師の作風が好きな人だったら毎回思っていることだと思う。

米津玄師の楽曲、毎回期待を越えすぎだろう、と。

自分の中では男性ソロアーティストなら、米津玄師、星野源、三浦大知、藤井風という四人は毎回想像を越えてくる楽曲を世の中に放り込んできて、自分の度肝を抜かされている。

ハードルが上がりすぎているはずなのに、毎回そのハードルを越えてくる。

超える、というよりもこういう飛び方だってあるんだぜ、と斬新な音を耳にぶつけてくる破壊力がある、と言えばいいのかもしれない。

しかも、この四人。

何が凄いって、ちゃんと大衆的なポップスという位置づけを守りながらも、革新的かつ己の個性を滲ませたアウトプットを行うところなのである。

なので、キャッチーだけど斬新で、新鮮なのに耳馴染みが良いという奇跡を生み出すのだ。

しかも、各々がきちんと作家性を発揮しているんだけど、かといって安易な法則性が一連のアウトプットをまとめることができない多様性もあるのである。

常に生み出す楽曲がどの歌も違う色をしているのだ。

話が少しそれてしまったけれど、米津玄師の新曲である「Pale Blue」もまた、そういう楽曲だったという話だ。

またしても、自分の持っている米津玄師への期待値を大きく越えてしまったのである。

何が、どう期待値を越えたというのか?

そう思われる方もいるかと思うので、自分の感想を交えながら、そのことについて書いていきたい。

米津玄師の「Pale Blue」について

過去最大級の切なさ

「Pale Blue」はある種の<別れ>を歌った歌である。

ところで、米津玄師の楽曲で<別れ>を歌った歌といえば、この歌を思い出す人も多いかもしれない。

米津玄師においても大ヒットソングとなった「Lemon」。

「Lemon」もまた、大切な人との別れを歌った歌である。

が、「Lemon」はどちらかという死別の色合いが強い歌である。

対して、「Pale Blue」は言葉の意味を素直に捉えるなら、失恋の歌となる。

友達にすら 戻れないから

このフレーズにあるように、恋人だった二人が別れて違う他人になるような光景が想起される。

つまり、二人は別々の生活を歩んだものの、生きている、と考えられるのではないか?

普通に考えたら、もっともパンチ力の別れは死別だと思う。

ということは、死別を描いた「Lemon」と比べると、「Pale Blue」の別れはまだ希望を見いだせるのではないか?

そんな風に思う人もいるのかもしれない。

しかし、「Pale Blue」の歌が描く別れは「Lemon」以上に痛切に響くのである。

少なくとも、自分にとっては。

なんというか、「Lemon」はどこかスカしているという節があるというか、そこまで言葉として未練を残している描写が少ない気がするのだ。

悲しみもしっかり歌の中に落とし込んでいるんだけど、どこか達観している節もあったというか。

というのも、「Lemon」って回想の描写が多い分、旬事項の今の感情に対しては、そこまで大胆な切り取り方をしていない印象を受けるのだ。

でも、「Pale Blue」は違う。

今の主人公の感情をゴリゴリに描いてみせるのだ。

なんせ、出だしが、これだ。

ずっと ずっと ずっと
恋をしていた

いきなり思いの丈をシンプルに述べる。

以降も、<最後くらいまた春めくような綺麗なさようならしましょう>だったり、<あなたが見据えた未来に私もいたい鼻先が触れるくらいにあなたを見つめたい>とゴリゴリに今、自分が想っている言葉を次々と述べていく。

トドメは、最後のフレーズの、これだ。

ずっと ずっと
ずっと ずっと ずっと
恋をしている

一見すると、出だしと同じフレーズを歌っているようにみえるけれど、よくみると最後のフレーズは現在形になっているのだ。

つまり、過去形で始めたはずの<恋>の気持ちが、歌の終わりには現在形に戻ってしまっているのである。

そうなのだ。

「Pale Blue」は、まだ<あなたとの別れ>を想い出としてすら受け止めていないのだ。

ここが「Lemon」との大きな違いだと自分は思っている。

だからこそ、「Pale Blue」には、今、まさに主人公が悲しんでいるリアルタイムがそこにあって、君という存在がまったく過去のものになっていない切実さがあるように感じるわけだ。

大切だったあなたと別れてしまい、それを何とか過去にしようと思っていた結果、まったく割り切れることなく<今も恋している>ことを知ってしまうという現実。

でも、恋をしている現実とは裏腹に、あなたとの関係性は少しずつ遠いものになっていく。

その証拠に、

望み通りの終わりじゃなかった
あなたはどうですか?

という語りかけをみせる。

このフレーズが意味するところは、もうあなたとは<鼻先が触れるくらいに見つめ合うことができない距離感>にいることを示しているわけだ。

どういう物語を経た結果、この二人は別れることになったのかは、わからない。

しかし、どうしようもない溝があって、その溝が切実に浮き彫りになっていることだけは、わかる。

そのどうしようもなさが、どこまでも切なく、悲しく、響くのである。

故に、米津玄師の楽曲においても、随一のメンタルブレイクな楽曲になったのではないか。

そんなことを思ってしまうわけである。

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張り裂けそうな感情を歌にする米津玄師

米津玄師のこういうテイストの歌がどこまでも物悲しく響くのは、米津玄師の歌声がどこまでもリアルだから、というのもある。

というのも、<張り裂けるほどの痛みを叫びたい>というフレーズが歌中にあるけれど、米津玄師の歌がまさしくそれなのである。

張り裂けそうな歌声で、痛みを叫ぶかのようにメロディーを紡いでいる。

だから、こういう歌詞が、どこまでもリアルに歌詞が響く。

サビの音程的が絶妙で、曲の盛り上がりとともに米津玄師の歌声が張り裂ける感じになるのがたまらない。

だからこそ、楽曲が持つBlueな色合いを強く強く打ち出していくわけだ。

さらに、今作はその色合いに追い打ちをかけるかのようなアレンジを施す。

鍵盤の音だったり。

ストリングスだったりと、楽曲を劇的に盛り上げるサウンドを随所に差し挟んでいるわけだ。

2番のサビが終わって、Dメロにはいった瞬間、リズムアプローチが少し変わる。

これが、夢の世界に迷い込んだような心地にさせられて、ほんのちょっと、夢の中でだけ君に会えたような、一瞬の希望をみせられる気がして、それもまた切なさに拍車をかけるのだ。

まとめに替えて

まあ、これは自分の感想なので、米津玄師がこの歌に込めたメッセージ性とは違った見方をしている可能性もある。

いずれにしても、自分はこの歌から強烈なメンタルブレイクをみて、とったという話である。

この歌が主題歌になっているドラマもなかなかに切ないから、余計にそっちのイメージに引っ張られるのかもしれない。

なんにしても、自分はこの歌が米津玄師至上、屈指のメンタルブレイク曲である。

そう思った次第である。

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