米津玄師の「地球儀」、これまでと違って楽曲に中毒されていない件

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米津玄師の音楽って二つの特徴があると思っている。

ひとつは、信じられないほどの個性。

米津玄師の歌って、大衆を魅了する音楽だし、強いて言えばどの歌もポップス的であるように思うわけだが、全然「普通」ではない。

例えば、「Lemon」。

この歌は、米津玄師の圧倒的な出世作であり、メロディーだけを掬いとれば、切なさが際立つ泣きメロ要素強めのミディアムソングである。

そして、億単位の人を魅了した歌となった。

でも、「普通」の歌かといえば、まったくそんなことはない。

たくさんの人に刺さる間口はあるが、不気味さや違和感を内包した楽曲であるように思うわけだ。

人の声をサンプリングしたようなサウンドを絶妙なタイミングで当てこむことで、それを生み出している。

なので、ポップス的でありながらも違和感も際立つ、不思議な手触りの楽曲になったわけだ。

「Flamingo」ではよりわかりやすい形で声ネタを進化させていき、<不気味>や<違和感>を随所に感じさせながら、それをポップに着地させるという米津玄師にしかできないバランス感で楽曲を生み出しているし、「死神」なんかだとより邪悪な形でその不気味さを軸に溌剌とした楽曲を生み出している。

以降も、犬や猫の鳴き声をユーモラスに取り上げた「感電」だったり、楽曲の構造そのものが個性的である「KICK BACK」など、常に米津玄師は斬新かつ個性的な楽曲を生み出してきた。

これが、米津玄師の楽曲の絶対的かつ明確な特徴である。

で、もうひとつの特徴は、タイアップ先とのえぐいくらいの親和性。

これだと思うわけだ。

というのも、米津玄師の歌って、何かしらのタイアップの主題歌として楽曲を手がけることが多いけれど、タイアップ先に対して、100点満点の楽曲を生み出してくることが多い。

例えば、「M八七」。

これは、本当にどこまでもウルトラマンの映画主題歌然としていた楽曲だった。

フレーズ、サウンド、メロディー。

どこを切り取ってもウルトラマンへの愛を感じさせる、米津玄師ならではの楽曲であるように感じた。

2023年にリリースされた「月を見ていた」だって同じことが言えるだろう。

この歌は『FINAL FANTASY XVI』の書き下ろしとして生み出された楽曲だが、この歌も、言葉とメロディーとサウンドの全てで。タイアップ先への高い解像度を提示する凄さがあった。

単に、タイアップソングだからタイアップ先でよく使われるワードを使おうとかそんなレベルじゃない。

深いレベルでその作品のことを理解したうえで、音楽作品全体を通じて、そのタイアップ先の世界観を作り上げる凄みがあるのだ。

もちろん、好きなタイアップ先しか受けていないという前提はあるのだろうが、つくづく米津玄師ならではの魅力だとは思う。

しかも、タイアップ先への愛を感じさせつつ、米津玄師の作家性も随所に感じさせるからこそ、米津玄師はすごいのである。

もともと米津玄師の作家性の振り幅が大きいからこそできる芸当でもあるのだろうが、いつも期待を超えて名曲を生み出してきた感触は確かにある。

そんな米津玄師が、宮崎駿の10年ぶりとなるアニメ映画作品の主題歌を手がけることになったのだった。

タイトルは「地球儀」。

映画が公開されるまで、今作が米津玄師の主題歌であることは明かされず、映画が公開されてはじめてそのことが明るみになったわけだが、多くの人がこのタイアップにワクワクしたことだと思う。

自分も映画が公開されてすぐこの歌を映画館で聴くことになったのだが、自分はこう思ったあ。

良い意味で、これまでの米津玄師っぽくない作品だなあ、と。

なぜそう思ったのかということを、後半で書き記してみたい。

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米津玄師の「地球儀」の話

この歌、これまでの米津玄師の楽曲から考えたら、すごくサウンドがシンプルであるように思うのだ。

前半はピアノひとつでサウンドを作りあげている。

途中からコーラスが挿入されるが、コーラスが入ってからもそ、素朴かつしっとりとした空気感が充満していた。

これまでの米津玄師の歌であれば、もっとド派手な展開になりそうなになっても、必要以上に音を足される印象はなかった。

色んな音を洪水のように掘り込んできて、ユーモアを生み出すこれまでの米津玄師の歌からすると、全体的にシンプルな印象を与えるような作りになっているように思ったのである。

もちろん、色んな音が鳴って楽曲が盛り上がるパートもある。

・・・が、情報量でいえば、これまでの歌から考えたら、すごくシンプルであるように感じた。

結果、歌全体の印象としては、ここ数年の米津玄師のシングル曲である考えると、群を抜いて素朴さを感じることになるのである。

楽曲のアウトロは、木彫りの床を軋むように踏み締める音で終わるようになっているが、この歌の差し込み方もどことなく素朴なものを覚えることになる。

あえて言えば、「童心」とか「憧憬」に近い手触りを感じた。

どれだけ技術革新が行われても、昔ながら”アニメ絵”にこだわってきたジブリ映画に足並みを揃えるかのように、「地球儀」は必要以上のごちゃ混ぜ感を楽曲内で作らない印象を受けた。

というのもあるし、自分は映画「君たちはどう生きるか」を観たしm自分はかなりこの映画が好きであることを踏まえた上で、今作はそこまでタイアップ先にコミットしている印象を覚えないのだ。

これは、米津玄師が「君たちはどう生きるか」を蔑ろにしたとかそういうわけではなく。

あえて「君たちはどう生きるか」という物語とは少し異なる地平線で、「地球儀」という歌を作ったのではないか、そんな気がするのである。

実際は台本をもらい、台本に添いながら歌詞を書いた可能性もあるが、これまでのタイアップ作品とは違った足並みの揃え方で米津玄師はこの楽曲を作った気がしてならないのである。

なぜなら、いつもと同じような作り方をしていれば、きっともっとシンクロ率の高い歌を作っていた気がするから。

でも、「地球儀」はあえて極端にシンクロ率を上げることなく、近すぎることもなく、遠すぎることもない地平で、「地球儀」という歌を作った気がしてならないのである。

それこそ、「君たちはどう生きるか」という作品と、「地球儀」という作品は地球儀の中にある点同士のような関係に感じてしまう。

同じ地平にはあるものだし、同じ”面”に存在するものではあるんだけど、その点同士は絶対に交わることはない距離感。

視点を変えたら、同じ場所で見ることができるふたつの点は、地球儀を回さない限り、「同じ場所」に来ることはなく、二つの距離は縮まることなく、存在している、そんな関係性のように感じてしまったのである。

まとめに替えて

ということもあって、「地球儀」はこれまでの米津玄師の楽曲とは異なるような味わい深さを覚えるのである。

いつもならすげえものに出会ってしまったような、歌の引力にぐいぐい引っ張られるんだけど、今作はもっと軽やかな手触りなのである。

あえて言えば、スルメソング、なんて言い方をしたくなるような手触り。

屋上に干してあるシーツに風が絡み合うような、それくらいの温度感を覚えたのだった。

これまでの米津玄師の歌としてありそうでなかった、そんな楽曲。

もしかすると、ジブリのタイアップソングだからこそ、こういう歌を、このタイミングで生み出したのかもしれないと、ふと感じる。

中毒性みたいな強い刺激はこの歌にはないけれど、時代を超えて感じることができる感動がこの歌にはあって、聞いてから時間を経ることで、じんわりと胸を打ち出す、そんな熱がこの歌には宿っているような気がして、ならないのである。

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