秋山黄色の「蛍」があまりにもストレートすぎる件

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秋山黄色って、わりとこれまでの作品も<自分>のことをストレートに歌うタイプのアーティストであるように感じた。

独特の立ち位置でもって音楽シーンに存在感を示してきた秋山黄色は、眼差しはどの歌でも他のアーティストの楽曲にはない輝きをみせていた。

他のアーティストとは違う視座で<自分>のことを歌うからこその描ける感情が、どの歌にもあった。

自分が秋山黄色をよく聴くきっかけになったのは「猿上がりシティーポップ」なのだが、この歌でもまた、そういう色合いが明確にみえる楽曲だった。

だから、自分は秋山黄色の音楽に惹かれた背景もある。

バンドではないアーティストでありながら、誰よりも”ロック”であると形容される理由は、こういう部分に宿っていたのだった。

そんな秋山黄色であるが、待望の新作では、これまで以上に<自分>のことを実直に歌っているように感じてならなかった。

過去最大級のストレートさをもって全フレーズを綴った楽曲をリリースしたのだった。

それが、「蛍」という楽曲である。

この記事では、そんな「蛍」の自分なりの感想を書いてみたい。

きっとどこまでも実直な歌詞たち

秋山黄色の音楽をそれなりに聴いている人であれば、きっと秋山黄色に何があったのか、何を起こしたのか、ということはある程度は認識しているのではないかと思う。

起こしたことについての是非を語るつもりはないが、秋山黄色が今後活動をしていくうえで、起こしたこととどう向き合うのかは、きっと秋山黄色とその周りはたくさん考えたのだろうし、色々考えた結果のひとつとして「蛍」という楽曲のリリースが決まったのだとは思う。

「蛍」という楽曲はどのタイミングで生まれて、どのタイミングで今回リリースしようと考えたのか、自分は知らないのだけれど、少なくとも、「蛍」という楽曲は、秋山黄色自身が起こしたことについて、あえて向き合うような言葉を意図的に盛り込んだ楽曲であるようには感じた。

世の中にはたくさんのアーティストがいる。

いわゆる”不祥事”を起こしてしまった過去を持つアーティストもいるし、その不祥事と向き合ったうえで、再度活動を行っているアーティストもたくさんいる。

ただ、そういうアーティストの多くは、少なくとも作品の中においては、その不祥事にいちいち触れるようなケースは、ほとんどなかったように思う。

作品は作品として別のテーマで楽曲を作ることが多いし、わざわざ自分のこれまでのことと重ねるようなフレーズを用いらないケースの方が多かったように思うのだ。

あえて言えば、作品とかアーティスト個人を切り離すように、そのアーティストのパブリックなイメージに向き合った、そのアーティスト「らしい」作品を歌うケースの方が、多かったように思うわけだ。

でも、秋山黄色は違った。

「蛍」という楽曲を聴く限り、今作は不祥事を起こした自分、という前提でもって歌詞を構築しているように感じてならなかったからだ。

秋山黄色はこれまでも<自分>のことを軸にした楽曲を生み出してきたが、「蛍」という楽曲は過去最大級でよりストレートに自分のことと向き合いながら、言葉を綴っているように感じたわけだ。

そして、ポイントなのは事件そのものの話をしているわけではない、ということだ。

事件を起こした自分という軸は絶対的にあるうえで、「蛍」という楽曲は対リスナーに対してどう向き合っていくのか、今後どう作品を届けていくのかという点に集約していきながら、言葉を綴っているように感じたからだ。

というよりも、秋山黄色自身が誰のために音楽を作っていて、誰のために言葉を綴っているのかを向き合った結果、自然とそういう視点で歌が構築されていった、という感覚の方が、自分的にはしっくりくるような楽曲になっていた。

「蛍」の中で、印象的なフレーズはいくつか出てくるが、個人的には

目を痛めてようやく みんなに気付いた

や、

手に残った少しの今迄

というフレーズが特に印象に残った。

この歌がいう<みんな>って何なのだろうとか、<少し残った今迄>って何のことを指しているんだろうと考えずにはいられなかったからだ。

あえてここでは、このワードは具体的にこういうことを指しているのだ、というつもりはないが、それでも、秋山黄色のファンに対する想いが、これらのフレーズに凝縮しているよう感じてならなかった。

そして、

「やり直したい」事ばかりだ これから

というこの歌の最後のフレーズが、あまりにも実直に秋山黄色の今の想いが込められているように感じてならなかった。

色々あったけど、言いたいのは、これ。

そんなパンチ力が、このフレーズに宿っているし、なぜ「やり直したい」と考えたのかを紐解いていくと、<みんな>や<少し残った今迄>が掛かってくるんだろうなと、思わずにはいられないわけである。

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儚げで、エネルギッシュで、そして切ない

ところで、今作は、歌詞のインパクトがとにかく強い歌ではある。

が、サウンドや歌の展開も非常にインパクトが強い歌である。

歌全体としては、アコースティックギターが和音を紡ぐ構成になっている。

なので、前半は比較的淡々とメロディーを紡ぐ、素朴な構成になっている。

こういう構成になっているから、この歌は歌のメロディーをしっかり伝える類の、聴かせるタイプのミディアムソングなのかなと思ったわけだ。

でも、楽曲が進むとがらりとモードを超えて、ふいにロック色が強くなる瞬間が訪れる。

それは「ごめんね」というフレーズを秋山黄色が歌い切ったタイミングだ。

途端、エレキギターが熱量をあげて轟音を掻き鳴らす。

その空間を一本のギターが塗りつぶすような心地がある。

ポップソングっぽいテイストかと思えば、ふいにロック色全開でゴリゴリかつアグレシッブに魅了する・・・というのは、秋山黄色のこれまでの楽曲でもまれに見られる展開であった。

「蛍」においても、切実に想いや感情や内面を表現するために、しっとりと轟音を並列するような、独特の展開をみせることになっていた。

そういう意味においても、「蛍」はどこまでも秋山黄色が秋山黄色として向き合った、あまりにもストレートな歌だなあと感じてならなかったのである。

まとめに替えて

あまりにも<自分>のことを歌ったこの歌は、きっと聴く人によって、色んな捉え方があるのではないかと思うのである。

でも、これまでの過去に対して、秋山黄色らしい形で向き合い、歌に落とし込み、その上でファンに対して今の気持ちをストレートに届けるこの歌に、秋山黄色の<らしさ>を力強く見出す自分がいたのだった。

自分はそんな秋山黄色のストレートさが好きだったんだなと、改めて認識させてくれる、そんな楽曲であったということだけは最後に記しておきたいと思う。

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