星野源の「光の跡」、形容がムズいんだけどとにかく好きという話

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この記事では、星野源の「光の跡」の話をしたいと思う。

ところで、自分が最初にこの楽曲を聴いたときに感じたのは、なんだか「喜劇」と通ずるものがあるなーというものだった。

優しさの塩梅とか、サウンドの質感とか、歌が描いている景色の感じとかに、どことなく通ずるものを覚えたのだった。

あとから、星野源のインタビューを読んでみると、「光の跡」は『SPY×FAMILY』のタイアップソングということもあって、同様に『SPY×FAMILY』のタイアップ曲だった「喜劇」と、音楽の感覚が根源的に繋がっているものにした、という話をしていて、すごく腑に落ちた。

ただし、「喜劇」と「光の跡」は、単に<繋がっている>楽曲というだけではない。というよりも、繋がり方ひとつとっても面白さがいくつかある。

例えば、歌詞的な視点でいうと、この2曲は

「喜劇」→「光の跡」

上記のような時系列で世界観を楽しめるような作りになっている。「喜劇」にいた二人の未来の歌が「光の跡」、という聴き方ができるような言葉の組み立て方をしている。一方で、音楽的なアプローチやサウンド的には、

「光の跡」→「喜劇」

というような時系列で追うことができる作りになっている。ここが、まず面白いなあと感じた。

というのも、「喜劇」は2000年代のヒップホップのサウンドをイメージしながら作った楽曲であるのに対し、「光の跡」は90’s前半のR&B/ヒップホップのビートに、80’s後半のR&Bミディアムバラードが合わさったサウンドがテーマになっているからだ。

「光の跡」の方が音楽的な参照は古いものであり、「喜劇」の方が新しいものを参照している。

なので、歌詞の時系列とサウンドの時系列だけを比較するとテレコになっているという捉え方ができて、この感じに面白さを覚えたのだった。

とはいえ、そこまでジャンルに熱心な人でなければ、意外とサウンド面における時系列の違いはぴんと来ないケースもあるかもしれない。

仮にその違いがあまりよくわからない人でも、「喜劇」「光の跡」にサウンド的な繋がりがあることは感じられると思うし、興味があればそこから広げて掘り下げられる面白さを残している、という点が星野源らしいし、楽曲の豊かさを培っている理由のひとつなのだろうなあと思う。

さらに言えば、「喜劇」も「光の跡」も、どことなく優しい響きを覚えるのは、サウンドのテーマに上記の要素を採用しているが大きいとは思う。上記のジャンルそのものが優しい響き、というわけではないが、使っている音色やテンポ感が、結果として楽曲の優しさを際立たせているように思うからだ。

それにしても、星野源の作品ってやっぱり面白いよなーと思う。

アニメタイアップだからといって、しかも子どもにも大人気のアニメのタイアップだからといって、いわゆる”子ども向け”の装いにするのではなく、洋楽のルーツを感じさせながら、音楽的なワクワクや広がりや繋がりをサウンドに落とし込んでいる感じが良いなあーと改めて思った次第。

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「光の跡」の歌詞の話

ところで、「光の跡」って書かれている歌詞だけを追うと、必ずしも明るい歌ではないよなーと思う。

歌の道中に散りばめられたフレーズだけみると、けっこうパンチがある言葉が並んでいると思うし、時に無の感情を感じさせるフレーズも横たわっている。

でも、「光の跡」全体を聴くと、そういう悲壮感って感じないとも思う。

もちろんこれって、結果的に希望が見える回答に着地している歌だからだ、ということもあるだろう。

でも、「ほら 終わりは 未来だ」というフレーズは、色んな捉え方ができるフレーズだし歌を聴いたときに感じる感情は、どっちに触れても良さそうな塩梅であるようにも思うのだ。

それを踏まえたとしても、トータルで聴いたときの「光の跡」は、なんだか優しい気分になれる。

あるいは、不思議な気持ちに包まれながらも、ちょっぴり朗らかな美しさに包まれる気がする。

なぜ、そう感じるのか?

それは前述したサウンドの装いが果たしている役割も大きいのだろう。

あるいは、美しく響く星野源の歌い方にもあるのかなーと思う。

このアレンジで、このボーカルのテイクで、このフレーズを歌うからこその美しさが宿っている。

そのことは、間違いないと思う。

その上で、「光の跡」は、フレーズの全てに<血の通い>を感じるのもポイントだと思っている。

どういうことか?

「光の跡」って、自分的にはサビの最後のフレーズの存在感が強い印象だ。

1番のサビもそうだし、楽曲ラストのサビもそうである。

で、こののフレーズって、それまでに語られたフレーズを踏まえたものになっているから、ぐっと言葉が入ってくる気がするのだ。

たとえば、ポップスでよくあるのはメロのパートではネガティブ寄りに落としておきながら、最後はハッピーなフレーズを用意しました、的なハリウッド映画よろしくな感じになることが多い。

メロ:辛い未来

サビ:その困難を乗り越えた希望

上記のような構成にすることが多い。

でも、「光の跡」って、別にそういう構図ではないように思う。

良い着地をしたいから、メロで絶望感を出す・・・みたいな安易さを感じない。

もっとシンプルに、色々感じて色々思い悩んで色々な景色をみた道中がメロパートのフレーズとしてあり、その結果として出た言葉が、素直にサビにあるような気がしてならないのだ。

だから、良いようにしたいとかそういうのではなく、ただただ素直な感情がそこにあったというか。

というのもあるし、別に「ほら 未来だ」も「ほら 出会いだ」もカタルシスを感じさせるためのフレーズというようなラインであるようには思わない。

それこそ捉え方次第の言葉だし、色んな意味として受け取れる含みがある。

でも、それでいいんだという感じがあるし、道中の結果としての言葉のように感じるから、そのフレーズが浮くことなく、説得力をもって存在する心地を覚えるのだ。

それが、結果として歌をすーっと受け止める土壌を生んでいるし、この歌の持つ不思議な朗らかさが際立つ心地を覚えるのだ。

まとめに代えて

色々書いたけど、「喜劇」が好きな自分として、「光の跡」のこの感じがあまりにもツボすぎた、というのがシンプルな感想。

結果、こうして記事を書いてしまっている自分がいる。

星野源って色んなカラーの歌を歌うけど、今はこういうカラーの歌がたまらなくツボだなーと感じる、そんな今。

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