音楽を生み出すうえでの”教養”は必要なのかどうかの論考~DECO*27と谷川俊太郎との対談を読んで勝手に感じたこと

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DECO*27と谷川俊太郎との対談が、色んな角度からSNSで話題になっている。

自分もふらっとその対談を読んでみた。対談としての良し悪しとか、それぞれのスタンスの良し悪しについて物申すつもりはないんだけど、最近「クリエイティブとしての知識の重要性あるいは不要具合」を考えることが多い。

というのも、このブログを作った頃くらいの自分のスタンスは、「何かしらの創作を志すのであれば、ある程度のジャンルとしての”知識”はあった方がいいのではないか?」というスタンスだった。

例えば、音楽を作るのであれば、国内の音楽だけではなく、海外の音楽にも目配せするべきだし、特定のジャンルだけではなく、色んな音楽をアウトプットしている人の方が、面白い音楽を作る率は高くなるのではないか?そんなことを思っていたのだった。

また、出来上がる音楽についても、色んな参照元がある音楽の方が面白いことが多く、色んな視点から語ることができる音楽はより”評価できる”作品なのではないか?と考えている節があった。

もちろん、今でも、そう感じるケースはいくつかある。実際の知識としてはどれほどかは別にして、ひとつの作品を生み出す上で、色んな参照元があったり、色んなバックグラウンドがあったりするものほど、「自分が面白いと感じる」確率自体は高くなるのかなーとは思っている。

でも、知識があるから良い作品が生み出せて、知識がないから良い作品が生み出せないこというと、そんなことはない。

むしろ、全然それまで音楽は聞いてこなかった、というアーティストに限って、既成概念をぶち壊すような、とんでもない作品を生み出すケースは増えている。そもそも、音楽に限って言えば、「知識」が多い人が有利なジャンルではない。

もし、「知識」が重要な存在だったら、キャリアが長いアーティストが、キャリアの少ないアーティストに超えられることってまずないけれど、事実は違う。

もちろん、技術だけに焦点を当てれば、キャリアのある人に軍配が上がることは多いけれど、刺激的なものを生み出しているかどうか、という視点に立つと、若い人の方がそういう作品を生み出しているケースは多いように思う(この辺りは、人によって意見が分かれるかもしれないが)

じゅうぜろ、の話ではないけれど、一定数若い人で面白いやつが出てきている、というのは確かだと思う。

これは「知識」としてのインプットというよりも、若い人の「当たり前」とキャリアのある人の「当たり前」が違っていて、各々の感性の発露や組み合わせの仕方が違うからこそ、生じることだと思う。

例えば、スマホが当たり前の世の中で生きてきた人の感性と、後追いで”デジタル的な技術”を身につけた人の感性は違うし、きっとそこから生まれるアウトプットも違うし、ひとつのインプットに対するアンテナの貼り方だってきっと違う。

なので、こと音楽のアウトプットにおいては、こういうひとつのインプットをどういう風に咀嚼するかがかなり重要であって、だからこそ、時に「量」を超越してとんでもないものを生み出すケースがあり、なんなら「量」がなくて、自由だからこそ生み出すことができた感性というのも、往々にしてあるんだろうなーと思うわけだ。

どっちが正しい、とかではない。

それぞれに、それぞれの可能性や面白さがある、という話だ。

その上で、もうひとつ思うことがあって、もし「知識」の積み上げこそが正義となってしまったとしたら、じゃあAIで色んな作品を学習して生み出した作品が「1番良い作品になるのか?」ということを考えてしまう。

今後、AIの規制がどうなるかはわからないけれど、理論上、莫大な量の知識を吸収したAIが、すべての感性を動員してアウトプットすることが可能になる時代がくる。

仮にそんな時代がきて、そんな作品が生まれたとき、それが「1番良い作品」になるのか、という疑問がすごくあるわけだ。

むしろ、そのときになって「網羅していないからこそのセンス」だったり、「偏った知識だからこそ気づけた視点」とかの方が、重要になるのかなーなんてことを感じる。

そうなったとき、「知識」は多ければ良いものでもなくて、何を選んで「知識」としてきたのか、が重要になるのかなと思っている。少なくとも、作品を生み出す世界においては。

まとめに代えて

なーんてことを仕事の終わりに、ふと考えてしまう、そんな夜。

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