三浦大知の『OVER』は何を”OVER”したのか考察してみた

前置き

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今でこそ、三浦大知の作品の感想はブログ内でたくさん書くようになったんだけど、初めて三浦大知の作品で記事として感想を残したのは、アルバム『球体』だった。

関連記事:三浦大知のアルバム「球体」の感想と個人的解釈!

なぜ、この作品だけ感想を書いたのかというと、それだけ当時衝撃を受けたからだ。

なんとかこの衝撃を言葉にしたいと思って、夜通しにずーっとパソコンに向かっていたことを覚えている。

当時と今では文体が違っているし、当時の”ノリ”で文章を書いているので、今読み返すと色んな稚拙さが目につくので、めちゃくちゃに恥ずかしい。

・・・んだけど、あのときの興奮は今でも覚えているし、記事のクオリティーはともかく色んな視点から言葉を書き記すことができたことは、良かったなーと思っている。

自分において、それだけ『球体』という作品の存在は大きかったのだった。

未だに何度も聴きかえす作品だし、『球体』に出会えたからこそ、以降、自分は三浦大知の作品をリアルタイムできちんと追うようになったのだった。

そんな『球体』以来のアルバム作品として、三浦大知がリリースしたのが『OVER』である。

どこかのタイミングで、感想を言葉にできたらと思っていて、なかなか書けずにいたのだが、一旦自分が思っていることを取り留めもなく吐き出そうと思い、今、こうして、パソコンに向かっている。

『OVER』の感想

今作においては、三浦大知自身が積極的にプロモーションを行っており、色んな媒体でアルバムについてのエピソードを発表している。

なので、きちんとアルバムレビューを行う場合、そういったメッセージも参照する必要があるのだとは思う。

が。

まあ、そういうアプローチはきちんとした音楽雑誌や音楽メディアに任せて、個人で運営しているこのブログでは”自分なりの視点”で、勝手気ままに言葉を紡いでみたい。

とはいえ、”OVER”というタイトルにどういう意志が反映されているのか、というところは事前にチェックしておきたいので、簡単におさらいしたい。

発表しているコメントなどをみると、OVERという言葉の意図は、ふたつ挙げることができる。

ひとつは「自分自身を超える」という意志。

もうひとつは、「さまざまな垣根を超える」という意志。

上記があるということが発表されている。加えて、

「初めて組む音楽プロデューサーやフィーチャリングアーティストの方とも一緒に楽曲を作りたい。いろんな意図とつながった楽曲が集まるアルバムになればという思いがありました」という言葉も残している。

実際、今作、Furui RihoやKREVAを迎えて楽曲が収録されているし、各楽曲のクレジットをみると、たくさんのプロデューサーやクリエイターの名前が連なっていることが確認できる。

これらの要素からも、今作では様々な人たちと協力しながら、作品が生み出されることが想像できる。

今作で”OVER”したものって何だろうか?

何度か作品を聴いていくうちに、今作のキーワードって、やっぱり”OVER”になんだろうなあと改めて感じた自分。

そういう視点で考えた時、『OVER』という作品が”OVER”したことってなんだろうと考えてしまう。

いや、もちろん、先ほどの項目で書いたことがOVERしている内容の一端ではあると思うのだ。

でも、それだけじゃないというか。

もっと多重的なOVERという言葉に意味が内包されている気がするというか。

そこで、OVERというワードを起点にして、もう少しアルバムに対する感想を深掘りしてみたいと思う。

アルバムという枠組みをOVERした『OVER』

『OVER』というアルバムは『球体』からみても6年ぶり、通常のオリジナルフルアルバムとして考えると、2017年にリリースされた『HIT』以来、7年ぶりのリリースとなる。

つまり、その期間中に、相当数のシングル曲をリリースしていたわけだ。タイアップソングだって、いくつもある。

通常、オリジナルフルアルバムをリリースする場合、それまでにリリースしたシングル曲を収録することは通例になっている。なんなら、近年はアルバムに収録される楽曲はほぼ全て、事前に配信シングル曲として発表しているケースも多い。そのため、フルアルバムはこれまでリリースした作品のまとめ集になっていることも多い。

個人の好みはあるだろうが、近年の一般的な音楽リスナーが音楽を聴く環境を考えると、アルバムの役割が”作品集”になってしまうことは一定数納得できる。

そもそも、アルバムをアルバムとして、最初から最後まで曲順通りに聴くリスナーだって、そこまで多くはないのかなという気もする。

けれど、『OVER』は、そういう通例の多くを踏まえない作品になっている。

・「Blizzard」「燦燦」といったヒットソングもあるが、それらは今作には収録されていない
・アルバムの中身は新曲10曲で、コンパクトにまとめている※一部事前配信されているが、それらがほとんどアルバムの先行リカットという立ち位置だった

・曲順通りに聴いてもらうような意志を感じる曲のチョイスと曲の数

もちろん、好きな形で聞いてもらってもOK、とは思っているだろうが、それでもアルバムという形式の可能性にこだわった作品であるような作り方をしているように感じる。

そのため、現代におけるアルバムの常識とか慣習においても、「OVER」はOVERしている印象を受けるのだった。

一曲単位のスペックをOVERした『OVER』

例えば、今作でアルバムリリースまでに発表されている楽曲は下記3曲だった。

「Pixelated World」
「能動」
「Sheep」

上記の楽曲の特徴として挙げられるのは、楽曲としての難易度の高さである。

歌って踊る、までを含めると、これをライブでちゃんと表現できるのは三浦大知しかいないのではないか?という楽曲ばかりが揃っていることに気づく。

まず、「Pixelated World」。

この楽曲は、ボーカルという観点においても、ダンスという観点においても、高いレベルでアプローチしている楽曲である。

踊りながら生歌を歌っている人が、ボーカル歌唱中に人の背中にのっかり、その状態でも美しいハイトーンを響かせる場面であったり、ボーカルの伸ばしている部分で、ボーカルのメロディーが高低しているタイミングで、そんな複雑な動きのダンスをするの・・・?という場面があるなど、端的に言って、歌って踊るの難易度の高い場面を凝縮した一曲になっている。

ボーカルとダンスが独自のリズムでビートを刻む構成になっているにも関わらず、それを一つの空間に落とし込むように、三浦大知が昇華しており、それを完璧なレベルで落とし込んでいるのだから、一曲でまとめられるスペックをOVERしている楽曲と言っても、差し支えないだろう。

「能動」も、そうだ。

この楽曲は、ボーカルの声色の使い分けが凄まじく、ボーカルだけを切り取っても2000文字のブログ記事が埋まるほどに多彩な歌声を魅せている。かつ、そのボーカルに合わせるダンスは、それ以上に多様かつ躍動な表現の数々。ライブで観たときも、びっくりした。

 

関連記事:ネタバレしながら語り続ける三浦大知のDAICHI MIURA LIVE TOUR 2023 OVERの話

 

「Sheep」は、全編がほぼファルセットの楽曲になっており、ボーカルの表現方法としてかなり攻めた歌になっている。相当ピッチに安定感がないと歌いこなすのが難しい楽曲なんだけど、三浦大知はそれを華麗にこなしてみせており、この楽曲もOVER感が際立っていることを実感する。

雑な楽曲紹介になってしまったが、どの楽曲も己ができる範囲の表現で楽曲を作るというマインドがなくて、できる/できないは一旦置いといて、自分はそれがやりたい、それができるようになるまで何度も反復練習をする、という気概を感じさせていることは確かだ。

つまり、『OVER』というアルバムは、一曲単位のクオリティでみても、どの作品も”OVER”しているという話。

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「さまざまな垣根を超える」をOVERした『OVER』

「さまざまな垣根を超える」、という意味を「OVER」という言葉に込められているということが、三浦大知の言葉で語られており、色んなアーティストやプロデューサーとやっていることも、その要素のひとつであることが明らかにされている。

アルバム内で、feat表記がなされている楽曲でいえば、

「全開」
「Everything I Am」

上記の2曲が挙げられる。

どういう話の経緯で、それぞれのアーティストを招聘されることになったのかは、他の音楽メディアやプレイリストの楽曲紹介などで参照できるので、そちらに預けるとして、他のアーティストのエッセンスが加わることで、アルバムがもうひとつ高いレベルに昇華されている印象を受ける。

「全開」は、KREVAの痺れるラップがあるからこそ、バチくそにかっこよくて、アガる楽曲になっていることを実感する。

「Everything I Am」は、1番では三浦大知のパートが、2番ではFurui Rihoのパートが展開されて、以降は二人のボーカルが交互に繰り返されることで、歌詞に込められた意味合いに深みが出ているし、楽曲の展開が色鮮やかになっていることを実感する。

一方で、楽曲の作詞・作曲のクレジットも多く、色んな人のエッセンスが各楽曲に加わっていながらも、必要以上に雑多な印象を与えていないのも、『OVER』というアルバムの特徴だなあと思っている。

これは人によって受け取り方が異なるかもしれないが、自分は、『OVER』という作品に、統一した何かを強く感じたのだった。

『球体』は、三浦大知とNao’ymtで、コンセプトをぐっと詰めたからこその作品性、アート性があったように思う。

一方、『OVER』は楽曲ごとの関わっている人も違い、ひとつひとつの楽曲の作り方も『球体』とは異なるアプローチのはずなのに、アルバムとしての統一性や、コンセプト性が浮かび上がるような仕上がりになっている「感じ」は、ある種『球体」にも通じていた気がするのだ。後述するが、最後の楽曲と最初の楽曲の繋がり方でも、そういうアルバムもコンセプチュアルを実感する要素になっている。

おそらくある程度クリエイティブのコントロールしたり、楽曲が完成するまでの道中で色んなディレクションを加えたからこその仕上がりだとは思う。

・・・んだけど、これって凄いことだよなあと思うのだ。

そもそも、日本のアルバムにおいて、このようなアプローチってまだあまりないようなあと思っている。

日本の場合、同じ人が作ることの作家性に比重が置かれることが多い。

そのため、色んな人が関わってくる作品(アルバム)の場合、その多様さを評価することはあっても、ひとつの作品としての作家性は二の次にする傾向がある気がする。

でも、海外では色んな人が関わってひとつのコンセプトを研ぎ澄ますアプローチが一般的になりつつある。

そう考えた時、『OVER』は、音楽性以外の海外のエッセンスを意図的に持ち込んでいる意志もなんとなく感じるのだった。

『OVER』というアルバムを作る構造そのものが、OVERというタイトルに込められた<さまざまな垣根を超える>というOVERをOVERしている感があるのかなあと感じた。

ややこしい言い方にしたが、外側への眼差しの向け方として、アルバムの作り方そのものにも反映しているところに、<さまざまな垣根を超える>の意志が反映しているように感じた・・・という話である。

アルバムのコンセプト性をOVERした『OVER』

『OVER』という作品のメッセージ性ってなんだろうか?

色んな部分から汲み取れるとは思うのだが、個人的に1番感じたのはラストの「Everything I Am」と「Pixelated World」の繋がりだ。

ここの歌詞のリンク性に『OVER』というアルバム全体のメッセージ性が集約されているように思う。

その一方で、よくよくクレジットを考えてみると、「Everything I Am」は三浦大知の作詞に関わっている楽曲だが、「Pixelated World」は今作で数少ない、三浦大知が作詞にクレジットされていない楽曲である。

本来、クレジットが誰か?を考えると、「Pixelated World」はアルバムの中で浮く楽曲になってもおかしくはないはずだ。

でも、実際はその逆で、Nao’ymtが作った楽曲が起点になり、そこから『OVER』のコンセプトは膨らんでいる。

もちろん、Nao’ymtが作った楽曲なので、しかるべきコンセプトのもと、楽曲が作られているとは思うが、自分の言葉が入っていないと、自分も作詞を手がけた楽曲が”シンクロ”するその感じが、さまざまな垣根を越えつつも繋がっていく、このアルバムの意志を踏まえた構成になっている気がして、個人的にぐっときたのだった。

もっと言えば、『球体』=Nao’ymtだったことを考えると、『OVER』の曲順は、

『球体』を起点にして、そこから『OVER』してきた果てに見てきた世界であり、ここから先の意志表示への流れ、というようにも捉えられるのではないか?(とこれはかなり勝手な妄想だが)と思っている。

いずれにしても、「Everything I Am」が紡ぐ言葉はかなりインパクトのあるものが多く、最後のフレーズは、

Everything is here
生きている
自分だけの物語
Everything is here
大切なものは何?

上記のフレーズになっている。

この楽曲はアウトロはなしで、上記フレーズの問いかけで終わる構成になっている。

このフレーズを踏まえてから、「Pixelated World」を聴くと、また違った世界が見えてくるようになっているのもポイントなのだが、この問いかけは『OVER』を通じて、伝えたかったメッセージのひとつのように思うし、それを踏まえて、アルバムを聴いたときの変化=OVERしたこと、であり、そういう変化の実感こそが、OVERという作品のメッセージ性にリンクするのかなあと思っている自分がいる。

アルバムの可能性をOVERした『OVER』

前項目だと話がちらかってしまったが、要は、OVERという言葉は色んな意味にとらえることができる言葉だし、リスナーに対するOVERも、密かにアルバムの価値観に落とし込まれているのかなーと思った次第。

それは夢に向かって頑張るぞ・・・みたいな話だけではなくて、聴いている人そのものの音楽的体験をOVERするという意図もあるかもしれないし、音楽からもらった言葉を踏まえて自分の価値観をOVERするというような意図もあるのかもしれない。

これは言明された要素ではなく、勝手に書いている言葉ではあるんだけど、それだけ『OVER』は色んな可能性を汲み取れるということ、そして、その汲み取れる無限性こそが、『OVER』がOVERしている要素のひとつなのかなーと思う次第。

まとめに代えて

・・・とまあ、自分が思いついたことを取り留めなく、書いてみた次第。

ほとんど妄言なので、へ〜そんな考え方もあるのかな〜くらいで読み飛ばしてもらえたら幸いである。

ただ、何にしても、良い意味で、「OVER」という作品は、朗らかだけど一切芯を曲げるつもりは三浦大知の闘志をぐっと感じる作品だなあと思った。

だからこそ、『球体』以上に、どの楽曲も言葉のひとつひとつにスキがなかったし、今という時代を踏まえて、今言葉にするべきことを三浦大知の視点から丁寧かつ素直に言葉に落とし込んでいるような印象を受けたのだった。

ただ、これは今自分が感じた言葉だと思うし、まだまだアルバムの魅力の一端しか見えていないんだろうなあと思うので、今年を通じて、もっとアルバムへの解像度を深められたらいいなーなんてことを思う、そんな夜。

関連記事:三浦大知の「Pixelated World」の考察。実は極上グルメでもあり変わり種駄菓子でもあった件

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