フェスにおけるルールについて改めて考えてみる

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今のフェスだとだいぶ異なるが、昔のフェスだと、ルールは破りつつもマナーを守ろう、みたいなことを標榜するケースがあった。

それぞれのバンドが持つ<大切にしているもの>を照らし合わせた結果から、こういうMCを発するバンドがいたわけだ。

個人的にもルールでがんじがらめになってしまうのは微妙だと思うし、他人に迷惑をかけない範囲で音楽は自由に楽しむべきものだと思う。

ただ、この<他人に迷惑をかけない範囲>というのは、ちょっと難しいと思う。

いわゆる、痴漢みたいな話は論外ではあるが、例えば、「声を出す」というアクションは、一方の人からすれば楽しむうえで当然アクションだと思う一方で、じっくりそのアーティストの音楽を聴きたい人からすれば、迷惑な行為と感じることだと思う。

また、同じ「声を出す」というアクションにおいても、合いの手はどんどんやってしかるべきと思っている人がいる一方で、楽曲をフルで歌うやつは許せないと考える人もいる。

ジャンルや国によって、「迷惑の思うライン」の比率は大きく異なるとは思うけれど、「声を出す」というアクションをあまり好意的に思わない人が一定数いるのも確かなのかなあと思う。

まあ、別にこの記事ではどういうアクションであればありで、どういうアクションならなしか、という話をしたいのではない。

ここで言いたいのは、誰かが自由を享受しようとすると、往々にして誰かの自由をトレードオフにしてしまっている可能性がある、ということである。

仮に頻発的な声出しという自由を享受しようとすれば、じっくり音楽を聴きたいという人の自由を差し出す必要があるということである。

もう少しいえば、ルールを少なくしてなるべく自由であろうとすればするほど、<力>の強い人だけがその自由を独占することができてしまい、<力>が弱い人ほど自分たちの自由を差し出す(つまりは、我慢をしないといけない)構図が生まれるように思う。

例えば、自由に暴れていいライブがあるとして、そうなると最前に向かうと、力の強い人はその空間で<自由>に楽しむことができるが、力の弱い人は満足にそこで<自由>を謳歌することができなかったり、そもそも立ち寄ることができないという構図が生まれる可能性もある。

もちろん、本当の意味で<マナーを守る>が機能していたら、仮に自由でも平等な自由を享受することができるのだが、実際的に考えたらどうしても<自由な空間>はカオスになってしまいがちになり、力の序列によって自由を謳歌できる人とできない人で分かれてしまうようには思ってしまうのである。

こういう構図を生まないようにするために、ルールが整備されている。

フェスにおいては、そういう風に機能していることが多いのかなーと自分は思う。

だからこそ、コロナ禍の今は、それまでのフェスでは快適に楽しむことができなかった層が、フェスを楽しめている、というケースもあるように思う。

確かにルールそのものの是非はあるのかもしれないが、ルールが機能されて誰かの自由が制限されているからこそ、普段はどうしてもトレードオフしがちな自由を堪能できている人もいる、という構図はあるのかなーと思うわけだ。

それが良いとか悪いとかの話ではなく、構造としてそのようなものがあるのではないか、ということがこの記事で言いたいことの内容となる。

まとめに替えて

だからこそ、ワンマンライブはそれぞれのバンドが思う<元の形>に戻していくべきだと思う一方で、フェスはどういう在り方が正しいのかは少し考え直してもいいのかなと思うこともある。

誰の自由を、どれだけ尊重するのか。

その中で、どういうルールは必要で、どういうルールは不要かが見えてくる。

そんな風に思うからだ。

そしてそれはフェスだけの話ではなく、もっと引いた視線でみていくと、より色んなものの見え方が変わってくる。

そんな風にも思うのである。

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