Nothing’s Carved In Stoneが日本武道館ライブを控えているようなので、Nothing’s Carved In Stoneの話をしてみた記事

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2023年に結成15周年を迎えて、ゴリゴリに活動を続けていたNothing’s Carved In Stoneは、2024年2月24日に日本武道館でライブを行う。

自分は、その日本武道館ライブに行く予定はないんだけど、そういうメモリアルなライブがあるんだなあと頭に入ってしまうと、日程が近づくにつれて、ついつい音源を聴きたくなっちゃう自分がいたのだった。

で。

気がつくと、定期的にNothing’s Carved In Stoneを聴いている自分がいたのだった。

で、これまでのキラーチューンももちろんいいんだけど、2024年にリリースされた「Dear Future」が、自分的にしっかり突き刺さったのだった。

自分はイベントを主催するようになって、若いバンドもよく聴くようになった。なんならバンド以外の音楽を聴くことも増えてきた。

それらのバンド・アーティストにも明確な良さがあって、ぐっとくる部分はいくつもある。

でも、そんな中で、中堅(という言い方が適切ではないかもしれないが、ここではあえてそういう言葉で表現する)的な立ち位置になりつつあるNothing’s Carved In Stonetって、やっぱり他のバンドにはない、かっこよさがあるなあと思い至ったのだった。

そこで、この記事では「Dear Future」が良かったという話をしながら、Nothing’s Carved In Stoneの魅力に触れて、話をしてみたい。

本編

演奏の安定感とかっこよさ

Nothing’s Carved In Stoneは演奏が上手いし、安定感がある。

そりゃあ、そうだ。

バンドが結成された経緯を考えてみても、「何をいまさら言っているんだ」という話ではある。

村松拓、生形真一、日向秀和、大喜多崇規という、他のバンドでプレイするときも圧倒的な存在を放っているメンバーが集ったバンドなのだから。

オールスター感すら漂うバンドがかっこいいを追求した音を鳴らしているのだから当然で、だからこそ、どこを軸にしてサウンドを聴いても、かっこいいのだ。

ギターサウンドやフレーズから音を辿ってもかっこいいし。

ベースのラインの流れも美しくてゾクゾクする。

ドラムアプローチだってどっしりとして切れ味が鋭いし、それらの音が組み合わさったときの高揚感は本当に半端ない。

「Dear Future」でも、そういうシーンをいくつも目撃することになる。

その上で、個人的に好きなのはバチバチにサウンドが展開している中で、1番のサビに入る直前で、瞬間無音となり、サビに流れ込んだ瞬間。

ここで、ばちこーんと各々のサウンドを衝突して、何かを爆発させている瞬間の高揚感が半端ないのだ。

一方で、「Dear Future」って、こんなアプローチ初めて!!みたいな、斬新で勝負している歌ではないと思う。

斬新ではない、というと語弊があるかもしれないが、どちらかというと、サウンドを聴けばジャンル性が頭に浮かぶタイプの楽曲であるようには思うわけだ。

だからこそ、「そういうサウンドが好きな人」に刺さる歌ではあるよなーと思う。(そういうジャンルが詳しいかどうかは別にして)

そして、ある種のジャンルをルーツにした上で、丁寧にサウンドを組み立てているからこそ、他のアプローチで攻めるバンドにはない、サウンドの安定感とかっこよさを体感することになる。

それこそ、バンドと一口にいっても、色んな魅せ方がある。

テクニカルなビートメイクで踊らせるアプローチもある。

あるいは、とにかくボーカルを軸にして、楽曲をデコレーションしていくアプローチもある。

あるいは、自虐的な歌詞と歌声で、「切ない」を喚起させる”エモさ”重視のアプローチもある。

あるいは、とにかくBPMを速くして、ノらせることを重視するようなアプローチもある。

色々ある。

Nothing’s Carved In Stoneの楽曲だけでみても、色々あるし、視点を広げば広げるほど、色んな「色々」を目撃することになる。

で。

これらのどれが正解とかはないし、そこにあるのは単純に好みだけである。

ただ、ひとつ言えるのは、Nothing’s Carved In Stoneの「Dear Future」が持つかっこよさって、そういう地点で魅了させるバンドではなかなか到達しないようなかっこよさが宿っているということ。

それは、テクニカルかつ表現力のある演奏力をもったメンバーで構成されたNothing’s Carved In Stoneだからこそ。

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伸びやかなボーカル

もうひとつ、「Dear Future」を聴いていて思ったのは、ボーカルの存在感だ。

仮にどれだけサウンドがかっこいいとしても、そのサウンドとボーカルが合っていなかったら、きっとぐっとくる濃度も減ってしまうと思う。

そう思ったとき、Nothing’s Carved In Stoneのボーカルって、村松だからこそだよなと思うポイントが多い。

バンドのボーカルって、色々いる。

透明感があって、繊細さや優しさが際立つようなボーカル。

とにかくハイトーンで、圧倒的な高音で突き抜けるようなボーカル。

地鳴りのように低音を響かせるようなボーカル。

ハスキーだったり、デスボイスで世界観を作って見せたりと、100バンドあれば、100の見せ方がある。

これもまた、ある程度音程さえとれていれば、正解・不正解はないと思っている。(なんなら、音程すら必要のない境地だって、あるように思う)

ただ、個人的に、ボーカルの波長とサウンドの波長が合うかどうかは、すごく大事だと思っている。

サウンドはゴリゴリなのに、ボーカルがあまりにも迫力がなくて、サウンドに埋もれてしまったら、きっと微妙に感じてしまう。

つまるところ、Nothing’s Carved In Stoneって、サウンドのかっこいいが際立っているからこそ、どんなボーカルでもそこにハマるかどうかは、微妙だと思うわけだ。

安易なボーカルだったら、きっとサウンドの存在感が強くなりすぎる。

サウンドがかっこいいからこそ、ボーカルにもそれ相応の迫力を求めたくなるというか。

そう考えた時、村松のボーカルとNothing’s Carved In Stoneのサウンドの結託具合は素晴らしいなあ、と思うのだ。

高音/低音具合でみても。

ボーカルに宿る熱量でみても。

そこにあるのは、絶妙な波長。そんな風に感じるのだ。(まあ、バンド結成の経緯を考えたら、我々リスナーがそう感じるのは、当然の話かもしれないが)

だからこそ、「Dear Future」って、不動のかっこいいが際立っている、という話。

まとめに代えて

https://youtu.be/pGjBv3cwuZ8?si=g2Mt5ztDGNkZfnCY

なんだかまごろっこしい話をしてしまったが、Nothing’s Carved In Stoneのかっこよさは、Nothing’s Carved In Stoneにしか出せないよなーと改めて感じた、というのがこの記事の大意。

確かにNothing’s Carved In Stoneと通ずるサウンドを鳴らすバンドは一定数いると思っていて、それこそ2023年に対バンで出演していたバンドの多くが「通ずるもの」を持っていたゆに感じる。

でも。

似ているバンドの音楽にもきちんと触れれば触れるほど、Nothing’s Carved In Stoneのサウンドの感じや、アンサンブルの響き、ボーカルとサウンドの結託具合は、やっぱりNothing’s Carved In Stoneにしかないよなーと感じる自分がいる。

というか、ここにきて何度もNothing’s Carved In Stoneを聴いている中で、そのことを改めて確信した、という表現の方が正しいのかもしれない。

関連記事:Nothing’s Carved In Stoneがカッコいいと思う理由

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