推しに対する想いは千差万別でいいんじゃないかと思うというだけの記事

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例えば、推しに関するニュースがあったとする。

そのニュースが世間一般にとってはめでたいことで、シンプルに推しの幸せを報告するだけのニュースだったとする。

そういうニュースだと、世間の空気としては「おめでとう」というものになる。

でも、そういうニュースだからといって、自分も素直に喜べるかどうかはきっとケースによると思うのだ。

仮にそういうニュースだったとしても、素直にそのことを喜べるファンと、そうではないファンって、きっといるように思うのだ。

こういう場合、よくこういう言葉が投げかけられる。

「推しのことを本当に推しているなら、推しの幸せは素直に喜ぶべき」

そういう意見って、あると思う。

確かに、それはひとつの正論だよなーと思う。

でも、正論かどうかとは別に、感情って別にあるよなーと思う。

もちろん、あまりにも害悪的な感情を攻撃的に発露するのは良くないと思う。

でも、素直に喜ぶことができない感情が宿る、というケースだってあるとは思うのだ。

きっと、それはそれだけ推しが大切な存在だったということの現れだと思うのだ。

自分にとって、推しとはどういう存在だったのか。

これによって、報告事の受け入れ方は、変わるはずなのだ。

推しをより近い距離の”人”として捉えている人もいれば、自分の人生にとって、言葉では尽くせないほどに尊い存在として捉えている人だっている。

この推しへの距離感とか、どういう存在として捉えているのかというのは、人によって違うはずだし、この距離感とか捉え方の違いによって、推しの報告の受け止め方は変わってくる。

だから、素直に一緒に喜べる人もいれば、すぐには受け入れることはできない人だって出てくる。

これは、どっちのタイプとかいう話ではなく、各々が各々の「世界」を生きているのだから、当然起こり得ることだと思うわけだ。

で。各々によって各々の「世界」を生きているわけで、その「違い」自体を、他人から安易にとやかく言われても・・・な部分はどうしても起こり得るように思うわけだ。

確かに、一般論としての正論、というのはあるのかもしれない。

そのひとつとして、「推しのことを本当に推しているなら、推しの幸せは素直に喜ぶべき」という言葉がある。

でも、論としてはそれは理解できたとしても、感情がその論通りに動くどうかは、また別の話だ。

推しに感情が動かされてきた分、その感情の揺さぶられ方は、きっと単純ではなくなるように思うわけだ。

そして、最近個人的に思うのは、各々にとって、もっとも大切にしてすべきものは、自分が抱える感情だよなーということ。

だから、仮に幸せな報告事を素直に受け止められないのだとしたら、ゆっくりとその感情と向き合ったらいいのではないか、その感情も大切にするべきだと、というように思うのだ。

時間が経過する中で、その感情の表情が変わったなら、その感情を大切にしたらいいし、難しい場合は、その難しいも大切に抱えたらいいのではないかと思うのだ。

確かに、明らかに他人に迷惑をかけてしまうような形で感情を発露するのは良くない。

でも、そこは線引きとしておさえるのであれば、自分の人生において、1番大切にするべきなのは、自分の中に宿った感情であるように思うから。

だから、まずはその感情を大切にするべきであるように思うわけだ。

仮に、それがいわゆる正論ではないのだとしても、それはそれでいいのではないか。

そんな風に思うのである。

まとめに代えて

なーーーーんてことを、ぼんやりとSNSで見ていたときに思った自分。

マジョリティがどうだとか、世論がどうだろうか、SNSではそんなことを言いがちだ。

そして、正論以外は黙殺するような空気感もどうしても生まれがちである。

でも、それとは別で、自分がどう思ったのか、どういう感情を抱えたのかは大切にするべきだと思う。

心の中にある感情に対しては、どこまでも自分に対して誠実に向き合っていけばいくべきである。

最近は、そういうことを強く思う次第。

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