DAOKOと米津玄師がコラボした「打上花火」。

この歌は、映画『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』主題歌であるが、今回はこの「打上花火」の歌詞について書いてみたい。

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作曲︰米津玄師
作詞︰米津玄師

歌詞について

米津は岩井俊二が昔から好きだと公言しているが(この歌が主題歌になっているアニメの原作の人)、少なくともこの歌は「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」の物語自体とは、そこまでリンクしていないように思う。

いや、「この夜が続いて欲しかった」っていうフレーズは、原作のあのことを指しているんでしょ?とか、思わなくもないけども、このフレーズは特段原作に寄せたものではないように思う。

若いときのひと夏の恋愛は、当事者である間はその恋が永遠に続くような大きなものに見えるが、ほとんどの恋はやがて終わりを迎え、終わりのない恋なんて「きっと」という言葉を使わないと成立がしない(要はそんなものなんて成立しない)ことを自覚するわけである。

この歌も「欲しかった」と過去形にすることにより、そうはならなかったことを明らかにするとともに、記憶のなかで花火のような儚げ光となって、今もなお胸の中にだけ宿るのである。

確かに人生という単位でみれば、その恋は些末なものかもしれない。

けれど、その時に限って言えば、その恋は一生のものであるかのように受け止めてしまうし、だからこそ、その恋の終わりや別れを感じてしまう瞬間には、どうしようも切なさや、やりきれなさを感じてしまう。

この歌詞は原作が持っている「若者のやりきれなさ」や「ひと夏の切なさ」みたいなものを上手に汲み取り、その機敏さと繊細さを落とし込んだパッケージにしました、という感じである。

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また、この歌はDAOKAと米津のツインボーカルという形をとっているが、女性ボーカルと男性ボーカルの掛け合いは、まるでそれぞれが女性目線、男性目線で歌っているかのような感覚になる。

特にCメロの掛け合いは、その真骨頂なのではないかと思う。

恋=花火であり、その恋という名の花火をどう捉えるのか。

男側の目線と女側の目線で、それぞれが己の恋を見つめるのだ。

それこそ、同じ恋という名の花火であっても、まるで横から見るのか下から見るのかの違いがあるかのように、男性側と女性側では、同じ恋に対する見え方が違ったりするわけで、その辺の食い違いやすれ違いも歌詞にうっすら描かれている感じがする。(まあ、原作は花火をそういうふうに描いてはいないのだが)

そして、その花火自体がどれだけ美しく輝いていたものであったとしても、どれだけその恋が終わらずに続いてほしいと願ったとしても、続いてほしかった夜が続くことはなく、やがてふたりはずっと見つめていたあったかい未来を、別々に分かれて歩んでいくのである。

この歌のタイトルは「打ち上げ花火」ではなく、「打上花火」と表記されている。

これは、「打ち上げ花火」という言葉を、この歌は比喩として使ってますよ、ということを示すためなのかなーと感じる。

普通に考えたら主題歌と同じように「打ち上げ花火」と平仮名入りで表記すべきなのに、それを拒んだのは米津の拘りなのかもしれない(わからないけども)

「打ち上げ花火のような人生」あるいは「打ち上げ花火のような恋」を描きたくて、打ち上げ花火という言葉は比喩なんだよ、ということをわかりやすくしたかったために、わざわざこの歌のタイトルから「ち」と「げ」を抜いて「打上花火」と表記した、ということなのではないかと思ったりする。

ちなみに僕は歌詞を見る感じ、男の人は復縁を望んでいるが、女性はもうその恋は終わったものとして見ている感じがする。

女性の方が恋愛にはドライなのである。終わってしまえば。(まあ、これは歌詞考察というより、個人の妄想ですが)

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