1994年にリリースされた9枚目のシングル「青い車」について書きたい。

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よくこの歌は「心中の歌」であると言われている。

今回は、フレーズひとつひとつを検証することで、この歌詞に隠された「意味」を検証していきたいと思う。

一番のAメロ・Bメロの歌詞について

冒頭のフレーズ郡で「僕の手が君の首筋に咬みつく」という部分が出てくるが、これは首を締めている描写ではないかという指摘。

ここで気になるのは冷えたという言葉のかかり方である。

死んだ君の首が冷えるならわかるのだが、この歌詞では、冷えているのは僕の手とある。

もし殺しをしたならば、それくらい血の気が冷えていると言えなくもないけど、微妙な線である。

さらに続くフレーズでは、「永遠に続く掟」と出てくる。

このフレーズは、この世で生きていくシガラミみたいなことを指していて、この世には見切りを付けてあの世に行こうよ、と言っているように聞こえる。

「シャツを着替えて」なんて爽やかな言葉でまとめているが、要は今の身体を捨てて魂だけになってあの世に行こうよ、と歌っているのではないか、とも取れる。

シャツ=現世の肉体で、それを着替えて魂だけになっちゃおうよ、みたいな。

でも、どうにも腑に落ちない。

「君の首筋に咬みつく」というのは、首を絞めている比喩とも言えるが、犬が戯れるような感じで、かるーく君の首にかみついただけのような場面に見えなくもない。

また、「掟」というのはスピッツの歌詞においてはセックスを意味していることがよくある。

それを考慮してみると、マンネリ化するカップルの営みに飽きてしまったことを「永遠に続く掟」と表現しているだけかもしれない。

実際、掟と永遠を「ような」という言葉で結んでいるということは、掟自体は永遠に続くものではないとも取れる。

本当に永遠に続く掟なら「ような」と言わずに、永遠の掟と言わなければならないはずだ。

そしてもし、掟が夜の営みだとしたら、シャツを着替えて出かけよう、というフレーズは文字通りの意味に受け取れてしまうから、面白い。

一番のサビについて

海という言葉が出てくるが、これは草野の詞において、もっとも死を連想される言葉である。

これは他のスピッツの歌詞考察でも散々言ってることなので、ぜひ参照してほしい。

さて、この歌のサビではのっけから、そんな海に行こうとしている。

やはり、これは心中の歌ではないか。そう言いたくなってしまう。

さて、この歌では、そんな海に何かを置いてきたといっているのだが、何をおいてきたのかはここではわからない。

この段階ではスルーしよう。

ただし、海に事前に「置いてきている」わけだから、この二人(あるいは僕一人かもしれないが)は海に一度やってきている可能性が高い。

つまり、この海は死んでからでないといけない場所ではない可能性が高い。

確かにサビの末尾に出てくる「もう何も恐れないよ」というフレーズは、死への覚悟のような言葉に聞こえる。

でも、海というのは怖い何かの象徴で、一度僕はそれに触れようとしたけど怖くなって逃げてしまった。そのときに何かを置いてきてしまった。今回は君の車でそこにやってきた。今回は逃げないぞ。もう何も恐れないんだから、的な物語を紡げる気もする。

さて、サビの重要フレーズである「輪廻の果て」という言葉。

これこそがもっとも心中の歌ではないかと想像させる必殺のフレーズなわけだが、果たして実際のところはどうなのだろうか。

ここでは「飛ぶ」とか「終わりない」とか「変わっていく」という、草野の死を予感させる単語がことごとく登場していることがわかる。

このため、余計にこの歌が心中の歌であるという印象を強める。

が、輪廻ってそもそもどういうものなのかをちゃんと捉えないと話がややこしくなる。

輪廻:生きかわり死にかわりすること。車輪が回転してきわまりがないように、霊魂が転々と他の生を受けて、迷いの世界をめぐること。

つまり、心中して生まれ変わるという意味にしたいのであれば、輪廻の「果て」でなく、輪廻そのものに飛び込む必要があるわけだ。

なのに、僕は果てに飛びたいという。

つまり、転生がしたいわけではないのだ、僕は。

むしろ、生まれ変わりたくないと思っているから、輪廻のずっと先にある「果て」に行きたいと願っているのだ。

今の魂のままずっといたい、つまり君とずっといたいという草野の独特の愛の告白なのではないか。

だから、輪廻の果てに飛び降りるのだ。

また、草野は死を予感させるときは身体を空高く、上に上に身体を持っていくようなイメージの言葉を使う。

が、青い車では「飛び下りよう」とか「落ちていこう」とか、どちらかというと空に行きそうになっている魂を地上に引き寄せようとするイメージの言葉が使われていることがわかる。

そして、この歌の最大のポイントは青い車である。

気になるのは2点。

なぜ車が「青い」のかと、その車が「僕の」ではなく「君の」車であることだ。

実はこの辺の構想は、草野はこの歌を七夕にリリースしたかったという話とリンクするのだが、ここではひとまず置いておこう。

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2番のAメロ・Bメロについて

2番の最初のフレーズはやたらと「生命」について意識させられるフレーズが登場する。

ここでやたらと命について説き始めるから、故にこの歌が心中の歌ではないかと思わせるのだ。

死ぬ間際になって「生きる」ことを改めて意識したのだ、と。

どんなモノだって生きているのだ、と改めて思ったたわけだが、なぜそこに気づいたのかが、やはりポイントになる。

死ぬ間際だから気づいたのか?

それだったら生きるということではなく、死んじゃうということは、と言ってもよかったのではないか。

むしろ、生きることを強く自覚したから、ここでこのようなフレーズが出てきたと考える方が辻褄が合わないだろうか。

その次に「愛で汚されたちゃちな飾り」というフレーズが出てくる。

これは何だろうか。

実は心中説を唱える人ほど、この辺のフレーズをスルーしているのだ。

愛で磨くとかだったらわかるが、汚すということは、愛に触れる前はキレイだったということだ。

ここでは、これを心ではないかと推測する。

その人を愛すれば愛するほど嫉妬心なども生まれてしまい、心は汚れてしまうからだ。

そして、ちゃちな飾りとは頬を伝う波ではないかと個人的に思っている。

ここに関しては、具体的な理由は明示しない。

ただし、イメージとしては、愛で汚れてしまった心(嫉妬心?)のせいで、涙を流してしまった、という絵をイメージしてもらえばいい。

そして、それを見て僕は美しいといっているのだ。

ここでもポイントは美しい光ではなく、美しく「見える」光といっていることだ。

つまり、それが美しいかどうかは人によって変わるという絶妙な言い回しなのだ。

言い換えれば、僕だからこそそれを美しいと感じるが、他の人はそれを美しいとは感じないかもしれない、というニュアンスも含んでいるわけだ。

ちゃちな飾りがが涙ではなかったとしても、僕だからこそ美しいと感じるモノである、ということはわかる。

2番のサビについて

AメロBメロでは、涙とか心とか君の内面に関するフレーズが出てきたことがお分かりだろうか。

途端、君の青い車というのがなんとなく腑に落ちてこないだろうか。

草野はこの歌を七夕にリリースしたがっていたという話を思い出してほしい。

スピッツが初めて七夕にリリースした歌は「涙☆キラリ」である。

そう。この君の青い車とは君の涙という比喩なのだ。

だから、青い車に乗るとき、君はそこにいないのだ。

サビの歌詞を注意深くみてみよう。

海というのは涙が生まれてくる場所とでも言おうか。

悲しみの出処とでも言おうか。

そこに置いてきたものである。

おそらく、僕は君を何らかの理由で泣かしたのだ。

それは別れの言葉を言ったからかもしれないし、ケンカをしてひどい言葉を投げたからかもしれない。

いずれにせよ、触れることすら躊躇するような「傷」を作ってしまったことは間違いない。

また、この記事では、海のことをこのように指摘している。

“海というのは怖い何かの象徴で、一度僕はそれに触れようとしたけど怖くなって逃げてしまった。そのときに何かを置いてきてしまった。今回は君の車でそこにやってきた。今回は逃げないぞ。もう何も恐れないんだから、的な物語が紡げるような気もする”

なんとなく、言いたいことがわかってきただろうか。

その傷に触れることを僕はもう恐れないといっているのだ。

僕が覚悟を決めて、君の中に潜り込もうとしているようなイメージが想像できるだろうか。

そして、そのあとに、つまらない宝物と偽物のカケラを僕は見つけていることがわかる。

これは君との思い出の数々を言い表した比喩であろう。

君の内面へ潜り込んだ僕。

君の中には色んなモノが落ちていたのだろう。

つまらない宝物とは、君が昔好きだった恋人との思い出のことかもしれない。あるいは僕と過ごしたありふれた日常のことなのかもしれない。

ニセモノのカケラとは最初は好きでもないのに「好きかも」というときの思い出(つまりは、僕が君に告白されてオーケーしたときの曖昧な感情とかかな?)かもしれない。あるいは、本当は悲しんでいたのに無理して笑っていた僕との日々の思い出とかかもしれない。

いずにせよ、それらは君の記憶のことであり、思い出そのものなわけだ。

その全部をおれは受け止める。

その全部はおれは愛する。

それくらいの勢いで君を包みこもうとしているのだ。

最初は恐れて、そんな覚悟なんてなかったけど。

今ならできる、と僕は言っているのだ。

だから、この歌のサビは変わっていこう、というフレーズで締められるのである。

Cメロのフレーズ、そして最後のサビについて

Cメロではやたらと「鼻」にスポットを当てていることがわかる。

目から涙がでたら、鼻もジュルジュルになるよね。

潮のにおいなんて言ってるけれど、涙に濡れた鼻水のことを指しているのだ、これは。

その鼻水をすするように真夏の風と吸い込めば、さっきまでの悲しみ気持ちなんてウソみたいになくなってワクワクするかもね、と言っているのだ。たぶん。

そして、最後のサビのフレーズでもう一度出てくるこのフレーズ。

「輪廻の果てへ飛び下りる」というのはもう二度と君を離さない、ということを草野流に表現した言葉だと事前に指摘していたが、それがよくわかるではないか。

おそらく、今回は死と対極のイメージ、つまりは生きる喜びを与えたかったからこそ、下に下に落ちていく言葉をイメージさせる言葉を連ねたのだ。

だから、この歌はどちらかといえば、心中しようとしていた僕が(もしかすると、君と別れてようとしたのかもしれない)、君の涙をみて、いま死ぬんてバカなことをするのは止めて、死ぬまで本気で愛そうという愛の告白の歌なのだ。

というか、個人的にはそっちの方がしっくりとくるという感じ。

ここから、冒頭の冷たい手とか、永遠に続く掟に話を接続し直すこともできるが、さらに長くなるので、今回はこの辺で締めることにする。

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