前説

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星野源の歌が好きである。

この記事では、なぜ星野源の歌が好きなのかについて書いていきたい。

本編

他のアーティストにはない手触り

「Pop Virus」なんかを聴けば、TVによく出るタイプのポップアーティストとは違う質感の音楽を星野源は生み出している。

少なくとも、J-POPってこういうテイストの音楽っていう価値観を転覆させるには十分な音楽を生み出す。

楽曲の構造、アレンジの音の使い方、メロディーライン。

そのどれもに新しいものを感じる。

自分の音楽に「イエローミュージック」を標榜する星野源だからこその質感の音楽がそこにはある。

星野源の音楽って熟達した素晴らしいがある。

一方で、インテリ的臭さというか、意識の高さみたいなものをあまり感じない。

言ってしまえば、頭を空っぽにして楽しむこともできるし、ルーツを探って潜るように音楽を楽しむこともできるわけだ。

音楽に詳しい人もその凄さに脱帽できるし、そうじゃない人でも楽しめる。

そういう懐の広さみたいなものを音楽から感じるわけだ。

懐が広いのは歌詞も同じこと

星野源の歌から感じるのは、仲間はずれを作らないという精神。

「うちで踊ろう」という歌が「おうち」ではなく、「うち」という言い方になったのは、星野源のそういうスタンスが明確に宿っているように思う。

そういうスタンスに八方美人なものを見出して、揶揄する人もいるかもしれないが、全ての人にきっちり目配せしながらも確固たる自分の価値観を提示し続ける星野源は八方美人と似て非なる存在だと思う。

「恋」や「家族」という普遍的なテーマを扱い、でも普遍的であるがゆえにそこからこぼれ落ちてしまっていた人にもきっちり目配せして、そこも取りこぼさずにテーマの中に含むという眼差し。

そして、そういう眼差しこそが星野源のメッセージになり、明確なる主張となっている。

そのスタンスにはただただ凄さを感じてしまうのである。

欠点があるとすれば

唯一、星野源に苦言を呈すながら、あまりにもクレーバーすぎるがゆえに、大きな要素も星野源の色に塗り替えてしまうことかもしれない。

この歌によって、誰もが手を出せなかったドラえもんという領域を完全に星野源の手中に収めたところがある、

草食的な雰囲気を出しながら、明らかなる貪欲さがある。

昨年のNHKの紅白歌合戦でも完全に星野源のターンは、紅白という番組を自分色に染めていた。

この圧倒的なる自我の強さ。

ここはある種の「やりやがったな」と言いたくなる部分もあるけれど、他のアーティストではできないことを貪欲なるクレーバーを持ってしてやりぬく姿勢は、やっぱり星野源の凄さを物語っているようなーと思うのだ。

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とにかくすごい

星野源を揶揄する音楽評論家もいる。

もちろん、音楽に好き嫌いもあるし、価値を置く場所は人によって違うのだから別にいいけれど、穿った見方で本質と違う評価を与えている言論をみていると、思うところも出てしまう。

でも、多くの音楽好きにとって星野源が提示した価値はとっても眩しいものだし、たくさんの音楽好きがドキドキさせられていると思うのだ。

少なくとも、自分はそういう一人であるということをこの場に記したいと思う。

なぜなら、楽曲を聴くたびにドキドキさせられるからだ。

構造としての音楽も歌詞も、全てが全てドキドキさせられるからだ。

また彼がラジオで語る考えの一端にふれるだけで、震えるものを感じてしまう。

本当に頭の回転がとんでもない人間なんだよなーと思うのだ。

まとめに替えて

星野源の歌って、仲間はずれを作らないような温かさがある。

たぶんそういう眼差しで歌が作れるのって、星野源がそれだけ寂しさを経験した人だからだと思うのだ。

自分の意図とは違う部分で揶揄されたり、作品の評価とはまったく異なる部分で評価されて、辛い思いをしてきた人だからこそ、歌の中の眼差しに優しさが宿っているのかなーと思う。

背負わざるを得ない立ち位置で歌を紡ぐアーティストだからこその、途方もない優しさを、楽曲を聴くたびに感じてしまう次第なのである。

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