BUMP OF CHICKENの「話がしたいよ」について書いていきたい。

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作詞 藤原基央
作曲 藤原基央

考察〜前置き〜

今回の歌は映画「億男」の主題歌であり、タイアップを受けて作った作品であることが明かされている。

そのため、歌詞について語るとなれば、まずはタイアップを抑えて〜というのが正当なアプローチだとは思うが、今作に限っては、タイアップであること、あるいはタイアップ作品と比較しながらの考察とはいうことは一切行わず、自分はこう思う〜というようなスタンスで書いていきたいと思う。

こんな考え方もあるのかなーくらいの目線でみてもらえたら幸いである。

ガムと何か?

この歌は聴けば、シンプルに僕はもう君に会えないということ。会えなくなったことを後悔していること。そんな後悔をどうでもいいといって流したいけれど流さないでいることなどがわかると思う。

要は、BUMPの歌としては珍しく素直な別れとか、その別れに対する後悔みたいなものを歌った歌ということになる。

しかも、最近はあんまりなかった物語調の歌で。

というわけで、全体的な歌詞の印象はそこになるのだが、気になるのは「ガム」という単語の登場のさせ方。

冒頭とラストで「ガム」という単語が出てくるのだが、このガムって何だろうという話。

「ガムと二人になろう」とあるので、ガム=この歌の主人公?と僕は感じる。

君にとってガムは「苦手な味」だったから、結局離れ離れになってしまった。

だから、ガム=主人公なのかなって。

けれど、ガム=主人公そのものってわけではないことは、最後のセンテンスで明らかになる。

「紙にぺってして」とあるように、そのガムは主人公の口から出されて捨てることを匂わせている。

ガムを紙にぺってするのは主人公のはずだから、主人公そのものが主人公をぺってするのはおかしい。

いずれにせよ、君がいなくなったことは明確で、君と話したくてももう話せないことは明確で、どうやったって戻れないのは一緒で、そんな色んなアレコレをまとめて「ぺってする」=後悔を断ち切るというのは構図としてあると思う。

そして、主人公は後悔から抜け出して前に進もうとするわけだ。

だから、ガムというのはあえて言えば「ダメだった頃の自分の象徴」みたいなものなのかなーと思ったりして。

あるいは、君にとって苦手だった味の自分、とでも言えばいいのか。

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バスとは何か?

この歌は、おそらくすごい短い時間を歌った歌だと思うし、すごい長い時間を歌った歌とも言える。

MVでは本当に藤原基央がバスを待っているが、この歌は「バスが来る」というのはひとつのメタファーで、本当にバスを待っているわけではないわけだ。

最後のフレーズで明らかになるのは、バスというのは君と決別する僕が次のステップに進むことを示すための「メタファー」であるということ。

ポイントなのは、普通の歌は決別して踏み出す、というところまでを描きがちだが、この歌は一歩踏み出す前のその前で歌を終えてしまうところにある。

だって、普通ならバスに乗るでしょ?で、君のことは忘れられないけれど頑張るぜー!みたいな展開になるでしょ?

でも、この歌はそこを描かない。

ガムを捨てるまではできたけれど、バスは開いたところで物語が終わってしまうわけだ。

本当に君と決別することができるのか?そんな挑戦を主人公に課しているかのような絶妙な場面で歌が終わる。

だから、その前のセンテンスで「そういってやりたいんだ 大丈夫 分かっている」って言っているけれど、めちゃくちゃに迷っているというか、全然大丈夫じゃないところもちゃんと示すわけで。

この辺のさじ加減が絶妙だなーと思う。

そもそも、基本的に全て比喩

「自分ごとポケットに隠した」というのは、自分の殻に閉じこもったとか本音は胸の内にしまい込んだとか、そういうニュアンスが込められた比喩だ。

「往復する信号機」だって心の中にある「だめだよ」と「いいよ」の動きを表す比喩というように捉えられる。

あと、ボイジャーは太陽系外~というすごく遠いものの話をしたあとに、次のフレーズでは自分の呼吸の音というすごい近くのものを描く。

この辺りは、すごくBUMP的な世界観である。

宇宙という壮大なモチーフを使いながら己の内面にあるすごく近くて、けれど届かないものを描かせたら藤原基央の右に出るものはいないわけで、このフレーズでもそういうモチーフをさらっと登場させている。

比喩の話でいくと「お薬」というのも比喩なわけだが、これに関して言えば、君を忘れるということが苦しみからの治療になるわけで、お薬=時間、なのかなーと捉えられる。

で、与えられた時間で他のことに没頭していれば、少しずつ君を忘れられるから苦しみから抜け出せるよ、みたいなそんな感じ。

けれど、「飲まない」と言い切ることで、主人公は君のことを忘れない、という意志を示すわけである。

その決意の相違として「どうやったって戻れないのは一緒だよ じゃあこういう事を思っているのも一緒がいい」と言ってしまうわけである。

もちろん、それだけなら切なくないんだけど、その記憶の先に行き着くのは、もし君がここにいたら「話がしたいよ」という、そこの想いなわけだ。

話したくてももう話せない、というそこの部分を最終的にクローズアップするから、この歌はどうしようもなく切なくなってしまうのである。

で、君って誰なのか?僕って誰なのか?

もちろん、この歌の主人公に誰を投影してもいいのだろうし、君に誰を代入してもいいのだろうと思う。

色んな解釈ができるから、色んな捉え方ができるように書かれているから、この歌は深みがあるのだろうし、他の歌では味わえない切なさを感じるわけである。

ただ、持て余した手というフレーズがあるように、僕と君はある途中までは手を繋いでいたことが想起される。

まあ、この手を繋ぐっていうのも比喩だとは思うけれど。

なぜなら、一人になった理由は「街が立てる生活の音」だからであり、これって街に出ていくようになった=大人になったからなのかなーと思うわけだ。

映画「大人になったプー」を観た人ならわかるかもしれないが、大人になると色んな心を失っていってしまう。

そんななかでピュアな君を手放してしまったのではないか?

一緒に手を繋いでいた僕と君。

けれど、僕=ガムは苦手な味であり、街が生活音を立てるようになってしまったから(社会に出るようになったから)僕は君と離れ離れになってしまったというか。

話は変わるが、「この瞬間」という超現在形の言葉を「していただろう」という過去形で語る不思議なセンテンスを使うも、藤原の独特の言葉回しである。

現在形から未来のこと、あるいは過去のことを語るのは「天体観測」であれ「記念撮影」であれ、よく使う手法であり、この独特の時間軸の捉え方がBUMPの世界観を奥深くしていたりする。

そういう意味で、この歌も僕=君であり、むしろ僕が君になるための歌なのかなーと思ったりする。

だからこそ、現在形なのに過去を歌っても通じるというか。今の自分に問いかけることが周り巡って君にもちゃんと伝わるというか。

だから、ガムと一緒になるというメタファーは最後ガムを捨てるというシーンで終わり、ガムを捨てたことでバスはやってくる、そういう流れに終わるのかなーと。

そんなことを感じた次第。

もちろん、人の数だけ解釈はあると思いますけどね。

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