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RADWIMPS「サイハテアイニ」の歌詞について書いてみたい。

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作曲︰野田洋次郎
作詞︰野田洋次郎

僕にないものばかりで 出来上がった君だから
君の全部がほしくたって
いけないことなんて ないでしょう?

愛の話をしよう そこに転がってる愛を知ろう
つま先立ちで 手のばしている君の

「したいの」が止まらないよ
止めるべきかももうわからないよ
痛いのとほとんどもう同じような 意味

愛の腕に もしも 掴まれたら
もう抗うことなんて しないで 開いてよ

僕にないものばかりで 出来上がった君だから
君の全部を知ろうとして
いけないことなどないでしょう? 

赤と黄と紫の 色だけで空を描いたんだ
君と僕とはつまりさ
そういうことなんだ わかるでしょう?
青は僕らの中に 充分すぎるほどさ あるから

世界で一番の 調味料なにかご存じなの?
ズバリつまりそれは空腹です
要は 愛に一番の 調味料はもう分かるでしょう?
その渇ききった心
渇いた胸に 注がれる愛に
勝るもの なんてないの ハイホー

千切れそうな夢だとか ホツレだらけの想い出とか
ツギハギだらけで出来た なぁみっともないかい?
でも一点モノの僕

平均寿命80年として
睡眠時間7時間として
あと何時間を 君とイチャつけんだろう

労働時間10時間として
残業時間月10時間じゃ
足りないよ 足りないよ ダーリン愛よ

僕にないものばかりで 出来上がった君だから
君の全部がほしくたって
いけないことなどないでしょう?

赤と黄と紫の 色だけで海を描いたんだ
君と僕とはつまりさ そういうことなんだ
わかるでしょう?
青は僕らの中に 充分すぎるほどあるから
燃えているこの炎 青色で僕らはさ 描いたんだ

以上である。

この歌はアクエリアスのCMソングとして器用されており、だから商品イメージに近い「青色」という言葉を歌詞に登場させたり、CMのイメージとリンクする「青春めいた甘酸っぱさ」が歌詞のテイストとして埋め込まれたりしているわけだ。

この記事では、この歌詞を色んな視点から眺めていくことで、歌詞にどんな意味が込められているのか深読みしていきたいと思う。

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文学部っぽい解釈

「青」という名詞がこの歌のキーポイントなわけだが、それ以外にも象徴的に出てくる名詞が幾つかある。

「空」「海」「炎」、そして「愛」である。

この言葉は具体的に何を意味しているのだろうか。

ここでポイントとなるのは「空と海は赤と黄と紫で描いている」という物言いである。

ここに「青」は登場しないわけだ。

青と青色以外の色の使われ方の違いとは何だろうか。

青は自分側にある色。
それ以外の色は自分の外にある色。

という線引きができる。

「炎は青色で描く」とあるが、炎=情熱とか熱意とか、そういう想いの強さみたいなものを指しているわけであり、要は自分側にあるものだからこそ「炎は青色で描ける」けれど、自分側にないものである海や空は「青色では描けない」わけだ。

では「空」「海」が何を指しているのだろうか。

平たく言えば、僕と君の未来のことになると思うし、それは愛という言葉とも結びつけられるものだと思う。

「愛」というものもまた「まだ自分の側にはない」ものであることが、ここで告発されるわけだ。

空や海を描くこと=君と僕はつまりそういうことさ、とイコールで結ぶことからも明らかである。

もちろん、この歌の僕と君は「イチャつきたい」という言葉からもあるように、おそらくは恋人関係でいると思われる。

ただし、君のことを知りたいと渇望しているように、まだ僕と君との間には「隔たり」があり、その「隔たり」を埋める作業こそが「空や海を描くこと」とも結びつけられるわけだ。

その渇望具合こそが最高の調味料である、みたいな言い方をしていることも、この話に繋がってくるわけだ。

ちなみに、この「足りてない感を潤す」というニュアンスは、アクエリアスのブランディングとも繋がっている話であり、二重の意味で巧みな表現だったりするわけだ。(というより、アクエリアスのブランディングと絡めながら「愛の歌」を歌おうとしたらこうなった、という感じの方が近いのかもしれない)

ちなみに、タイトルにあるサイハテアイニは最果て・会いに(愛に)」に言い換えられる。

最果て=海=空=君との隔たり=渇望=青でないもの=愛(に)

会いに=炎(を持ってする行動)=青=僕ら=アクエリアス=青春っぽい甘酸っぱさ

というのが、この歌詞の構造なわけだ。

法学部っぽい解釈

僕にないものばかりで君が出来上がっているからといって、君が嫌がっているのに、君のことを強引に「保有」しようとしたら、罪になる可能性が高い。

例えば、モノを強引に奪おうとすれば「窃盗罪」が適用されるだろうし、「君を保有する」が性的関係の強要を意味しているのだとしたら「強姦罪」や「強制わいせつ罪」が適用されることになる。

僕がどう思っているのかだけを物差しにして「いいでしょ?」と勝手に結論づけるのではなく、君がどう思っているのかの意志はしっかり確認するべきなのである。

また、仮に君が「僕に保有されること」を許可する言葉を述べていたとしても、それが僕の暴力や圧力を背景にしたものであれば「強要罪」などに課せられる恐れもある。

愛の話をしよう、なんて言葉もあるが、双方が「愛」を認識して初めて「愛がある」と言える状態になるわけで、一方が「これは愛なんだ」とか「僕は君を愛してるんだ」なんて言っても、それは人よがりな危険思想でしかなく、悪質なストーカーに他ならないわけで、そこは注意が必要である。

「一点モノの僕」というフレーズからもあるように、この歌の主人公は自己意識が過剰であり、自己中心的な視点で相手のことを考えている恐れもあるので、少し引いた視座で物事を捉えるべきである。

愛の中身は僕と君にしかわからないが、そこに愛がない状態でこの歌に述べられていることをするとしたら、法律的にみたら、それは青ではなく黒(つまり有罪)でしかないので注意が必要である。

理学部っぽい解釈

平均80年で、睡眠時間7時間で、あとどれくらい君とイチャつけんだろうか?という問いが歌詞に出てくる。

そのことについて考えてみよう。

現在の僕らが、二人とも現在18歳だとすれば、80歳までに残された年数は62年である。

この62という数字をXとしておく。

また、一日は24時間なわけだが、そのうち7時間が睡眠時間、10時間が労働時間であるならば(この時間に通勤時間&残業時間は含まれていると仮定する)、1日のイチャつける時間を算出すると、

24-(7+10)=7

となる。

つまり、この段階で1日にイチャつける最大時間は7時間しか残されていないわけだ。

「イチャつく」というのが、どういう行為を指すのかによって、細かな時間計算は変わってくるわけだが、ひとまず1日の生活時間だけで考えれば、ここからさらに食事の時間やトイレの時間などを削る必要が出てくる。

この一般的な生活時間を、今回は1時間と仮定する。

すると、計算式は、

7-1=6

となり、1日の最大イチャつき時間は6時間となるわけだ。

この時間をYとする。

一年は365日なので、一年間のイチャつき時間は365Yとなる。

62年間、仮に毎日顔をあわせ、毎年円満に月日を共に過ごすことができたと仮定するならば、80歳までに割くことができるイチャつき時間は、

365Y×Xであり、その解は13万5780時間になる。

もちろん、これは最大限の見積もりであり、実際はこれよりももっと低い数値になるだろう。

13万という数字が大きいのか小さいのかはわからないが、社会人の給料として考えたら確かに少ない。

ダーリンと言いたくなる気持ちもわかるような、わからないような。

心理学っぽい解釈

野田洋次郎の歌を考えるうえでもっとも大切な視点は「僕と君の関わり方」だと思う。

歌の主人公である僕は単に君に依存しているだけの存在なのか、君という存在と「対等」でいようとしている存在なのか、君なしで自立しようとしているのかなど、歌詞において、僕と君との関係性は大きく変わってくる。

今回の歌においては、僕は君の全部をほしがってもいいでしょ?とあるように、君のことをすごく求めていることがよくわかる。

それは半ば、君は絶対的に僕の側にいてくれる存在として描かれているように感じてしまう。

見ていくと、僕から君への気持ちが一方的に綴られている言葉が目立っているし、その言葉が君に拒絶される可能性はほとんど審議されていないように感じる。

僕の全能感は異様に高いわけだ。

けれど、この歌における僕の全能感は、いわゆる洋次郎的なドロドロさとは対極的にあるようにも感じる。

というより、この歌の全能感は若い=青春的であるからこそ宿っているものであり、メンヘラなそれとは性質が異なっているように思われるわけだ。

なにより、全能感を持ちつつも、この主人公は意外と自分に自信がないようにもみえる。

やたらと歌詞に疑問文が出てくることが、その現れである。

おそらく僕と君は同じ青を宿している者というカテゴライズをしているものの、僕の持っていないものを君は全て持っているということは理解しており、そこに劣等感なり不安なりを抱いているから、不安になるのではないかと思うわけだ。

僕と君に愛があるに違いない、ということを言っておきながらも、これだけ違うはずの僕と君の間に本当に愛なんてあるのだろうか?と懐疑的になっているのかもしれない。

心の奥底では。

そんな、イキっているけどどこか不安な心模様こそ、「青春の歌」と呼ぶに等しいのであり、サイハテという言葉に象徴される「無限の可能性」と「終わりが見えない不安」を見事に表現した、野田洋次郎ならではの「甘酸っぱさ」がこの歌には宿っている、と評することができるのかもしれない。

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