ネガディブなニュースがすぐにSNSでバズることと、作品批評からすぐに人格批評に移ることについて思うこと

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ブログやSNSをしていると、思うことがある。

それは良いニュースやポジティブなものよりも、悪いニュースやネガティブなものが圧倒的に拡散されやすいということ。

自分も昔は良い/悪いも選択せずに、色んな感情をインターネットに投下していたことがあった。

でも、油断すると簡単にネガティブの渦に巻き込まれてしまうなー、すぐにネガティブな感情の反応が拡散されるなー、と感じてたからは、あまり安易にネガティブなことは書かない/言わないようになった。

ということもあるし、ネガティブに捉えていたもの(特に音楽作品においては)を丁寧にみていくと、良いところや魅力的なものを発見することがほとんどだった。

すぐには見つからないものに対しても、時間を経ってから作品を聴いてみると、「めっちゃ良いやん!」となることが多かった。

人に何かを勧めたとき、売れていない頃に同じものを勧めても「微妙・・」とか、あまり反応が良くなくて、スルーされることも多いが、売れてきたら風向きが変わると「めっちゃ良いやん」とか言われることもまあよくあって、勧めた側からすると、少しむむむ、と思うこともあるけれど、当時と今で感じたが変わることは確かによくあるので、まあそういうこともあるか、と思うことにしている。

なにはともあれ、自分のスタンスとしては

・良いものを見つけていく
・その時はないように感じたら、無理には触れていかない

そういうスタンスをとっている。

一定の評価軸をもって「良い」「悪い」をきちんと判断するというのも、作品への向き合い方としては誠実なのかもしれないが、近年はあまりにもネガティブな要素における共感の爆発力が凄すぎるので、そういう要素への触れ方は自分的に注意している、というのが結論である。

で。

これ、例えば作品の良し/悪しだけなら別にいいと思うんだけど、作品が良くないと感じた場合、すぐにアーティストそのものを否定したり、場合によって、その中にいる人の人格そのものを軽率に触れることがあまりにも多すぎると思う。

たいてい、人格までの批評に転じた場合、その評価は的外れになるんだけど、点になっていたその的外れの評価が束となって、牙となって、当事者に大きなダメージを与えるということが本当に多い。

こうなってくると、誹謗中傷の話になるんだけど、ちょっとしたネガティブな拾い方があっと今に大きな誹謗中傷になることって、本当に多い。

そういうことに対して、自分はなるべく繊細かつ自覚的にいたいなあと思うので、作品に触れ方ひとつとっても気をつけるべきだと思っている次第だ。

ここ最近、SNSではあまり良くないニュースが、加速的にバズを生み出し、きっとそのアーティストの作品をほとんど聴いていないような人が「わかったような口で、そのアーティストの作品やアーティストそのものについて、強い言葉を投げる」という様子をみることがよくある。

確かに、ライトな層にも音楽が届くのは良いことではある一方で、上記のようなことが強い波をもって生じることが良いのかについて疑問を覚える自分もいるのだった。

この辺の「強い言葉を投げられる」の感覚は、きっと当事者にしかわからないものがあるのだろうけど、そういうものが簡単に生じてしまうことは、自分的に疑問を覚えるし、作品について色んな評価が出る風土はきちんとあったほうがいいと思う一方で、罵詈雑言を好きなように投げつける風潮については、ストップさせたいと思う自分がいる。

なかなかそれそのものを止めることができない。

でも、せめて、自分が何かを口にするときは、そういうスタンスでいきたいし、そういうスタンスをちゃんと形にできるようにしたいなあと思う。

ネガティブな感情をうまく使ってバズを生み出す方が、お金も生まれやすいし、生き方として賢いのかもしれない。

でも、安易にはそういう風に流されずに、生きていきたいなーと、改めて感じた、そんな夜。

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